第19回 インフラとしての本屋を成立させるために〜下田裕之さんの話(5)


 
「自分がおもしろいと思うことに自信がある」というのは、人として強い。下田裕之さんの話を聞いていると、そう感じる。作品やものごとに対して、おもしろいか、おもしろくないか、という判断は主観的なものだ。だからこそ、そこは自分勝手に、徹底して独善的な判断を下してよいはずだが、己を振り返ってみると自信の程に迷いがあるときがある。おもしろい! と盛り上がっても、気の迷いだったかな…そうでもないかな…となぜか弱気になり、他の人はそうでもないかも…とますます萎れていく。自分自身に対して、どこか言い訳めいたことを語りだす。懐疑的になって、胸を張れない自分がいる。
 
「自分の価値観のなかに、おもしろいか、おもしろくないか、というのはすごくあります。むかしから好き嫌いを整理して考える以前に、何かおもしろいものを見つけたいというモチベーションが強くあって、だから判断基準は自分のなかではっきりしています。一方で、強烈におもしろいと思えるものがないと、元気がなくなっちゃうんですけど、それってあんまり大人とはいえないでしょう? でもやっぱり、おもしろいと思うことを優先順位の上におきたいんです。だから僕は、自分がおもしろいと思うことにはめちゃくちゃ自信あります。ものすっごい自信ありますね」
 
 そう話す下田さんの目は輝いている。全体的にキラキラしている。まぶしい。
 自分がおもしろいと思ったものは、みんなもおもしろいはずっていう、そういう自信もありますか? と聞いてみる。
 
「あ、それはないです。自分自身に対して、お前これおもしろいと思うだろってプレゼンをする自信があるってことですね。他人がどう思うかはわからないです……いやでも、社会的なコミュニケーションのなかで、この人はこういうのが好きだろう、望んでいるだろう、みたいなことはわかるようになりました。
 でも自分自身をおもしろがらせること、それがないと本屋の仕事なんてできないんじゃないかと思うところはあります。不遜ながら。言葉の使い方が難しいんですけど、自我や自意識を見せつけるということじゃなくて、自分という客にとってのいちばんいい店員になる、という感じです。これおもしろいよって、ずっと自分にプレゼンし続けられたらいいなって」
 
 下田さんが立ち上げた早春書店は古書店で、新刊書店のように入荷してくる本を選ぶことはできないのに、どこか、あるべき本が並ぶべき棚に揃っている、という印象を受ける。下田さんは、自分の店でサブカルチャーを表現することを目指しているのだろうか。
 
「表現……うーん…サブカルチャーは好きだし、サブカルチャーについて考えることは自分のなかで大きなテーマですけど、店で表現するというのはちょっと違っていて…。
 僕の解釈ですが、古本屋の仕事ってひたすらコミュニケーションだと思うんですよ。新刊書店でももちろんこの面はありますが、古本屋はお客さんから本を買うプロセスもあるので、商品の流れも双方向になる。お客さんと会話したりするだけじゃなくて、本が双方向に流れ続けていくことまで含めてコミュニケーションというか。店主は、そのぐるぐる回る渦のなかのハブになることしかできない。でも店主のキャラクターや姿勢で、集まってくるものが変わり、買ってくれる人のタイプが変わってくるんですね。どんなコミュニケーションを誘発させられるか、それがハブの役割です。
 僕はサブカルチャーについて考え、発言していますが、お店をやるときは、いろいろな人が自分のまわりを行き交って、その人たちが僕を認識するときのカードの1枚としてサブカルチャーが入っている、というイメージです。表現するのは文章で書くので、店では行き交う人たちの中に立って“サブカルチャー”の看板も出している状態ですね。店をやるっていうことは、そういうことだと思っています」
 
 下田さんは新刊書店を辞めたとき、書店員以外の選択肢を考えなかった。「言われてみれば、鞍替えしようとはまったく思いませんでした。本屋の仕事しかできないっていうのもありますけど」と笑う。
 
「高校時代に学校の近くに古本屋がなかったら、ほんとうに引きこもっていたと思うので、その恩義があるというのもあります。外に出たときに、行く場所があると一息つけるし、いまはしんどくても、自分がまだ知らない世界があっておもしろいことがあるっていう入口を用意してくれていると、極端なことを言えば、とりあえず今日は自殺するのやめようって乗り越えられるかもしれない。本屋を好きな人って、そういうところがあると思うんですよ。
 あとまあ、本屋はおもしろいです、やっぱり。なんとかずっとこの仕事をやっていきたい。漫然とやっていても相手にされなくなりますし、そのときに自分が頼れるのは、自分自身をちゃんとおもしろがらせる、ということなんです。目標はインフラになること。洗練されたことは自分はできないかもしれないけど、お客さんにとってインフラとしておもしろいか、役に立つか、ということを考え続けて、コミュニケーションのなかで棚をつくっていきたいです」
 
 あちらこちらから集まってくる本や人が行き来する交差点に、下田さんは立っている。そこは交通整理されることなく、不確定だからこそ刺激的で活気にあふれ、あたたかい。
 

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む

第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
第4回 「良い本屋」ってなんだろう~日野剛広さんの話(3)~ ‎
第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜
第7回 時代が変わる、売り方も変わる〜海東正晴さんの話(2)〜
第8回 本とレコードに囲まれて〜海東正晴さんの話(3)〜
第9回 本屋さんの最終型とは〜海東正晴さんの話(4)〜
第10回 つくば科学万博のころ〜徳永直良さんの話(1)〜
第11回 四国で暮らしていたころ〜徳永直良さんの話(2)〜
題12回 つくばの本屋さんで、できること〜徳永直良さんの話(3)〜
第13回 書店員ののちに始めた新しい仕事について〜徳永直良さんの話(4)〜
第14回 落ち穂拾いの日々〜徳永直良さんの話(5)〜
第15回 書店員として働きはじめたころ〜下田裕之さんの話(1
第16回 早春書店を立ち上げるまで〜下田裕之さんの話(2)
第17回 80年代のことしか考えていなかった〜下田裕之さんの話(3)
第18回 下田さん、サブカルってなんですか?〜下田裕之さんの話(4)


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第18回 下田さん、サブカルってなんですか?〜下田裕之さんの話(4)


 
 中学〜高校時代、80年代のことだけを考え続けてきた下田裕之さんは、2005年、法政大学に入学して哲学を専攻した。担当の先生はバタイユが専門だったが、下田さんが興味をもったのはジャン・ボードリヤールというフランスの哲学者だ。
 
「たとえば、やかんの使用価値は『湯をわかす』ところにあります。この社会に、やかんが30個しかなかったら、『湯をわかす』機能が重宝されるけど、ひとり1個持っていたら、この機能は特別じゃなくなるから、人びとにそれ以上消費を促すことができない。じゃあどうやって買わせるかというときに、若者に人気のデザイナーがつくったとか、メーカーブランドオリジナルのロゴをつけたりだとか、ノーブランドにはない記号的な付加価値をつけるようになる。ものの価値は、使用的価値から記号的価値に移行するということを指摘した人です。
 これは学問的な理屈だったんですけど、日本社会でこの差異化が現実になり始めたのが、80年代なんです。当時セゾングループ代表だった堤清二氏が『無印良品』を立ち上げたのは、ボードリヤールの理論の影響があるといわれています。ブランド隆盛の時流に逆らって、あえてブランドをはずした“無印”のレーベルをつくったんですね」
 
 大学生の下田さんは、ボードリヤールを勉強するのと並行して、評論家の大塚英志をはじめ、サブカルチャーの領域で活動する人のものを読むようになる。ただ80年代を考えるだけじゃなく、社会的なしくみのことまでを考えるトレーニングをしていった。その後も思考を続け、現在では批評ユニットTVODを結成、来月1月31日には『ポスト・サブカル焼け跡派』(百万年書房)という書籍を発売予定だ。
 そうやって80年代サブカルチャーを考え続けてきた下田さんに、聞いてみたいことがあった。サブカルとは何か、ということである。
 わたし個人としては、サブカルという言葉が便利遣いされすぎて、その意味するところが人によって違ってきているように感じている。本屋さんの棚の分類札に「サブカル」とあると、芸能、格闘技、漫画、画集……とジャンルもさまざまな上に、ほんのりアンダーグラウンド感が漂う本が並んでいることが多い。なんとなくはわかる。考えるよりは感じる分野というのが、わたしのサブカルに対する雑なイメージだ。サブカル求道者である下田さんなりの定義を聞いてみたいと思った。
 
「サブカルチャーというのは、元々は社会学者が使い始めた言葉なんです。欧米の社会学での使われ方は、ある社会でのメイン(統一者側)の文化ではないもの、たとえばイギリスにおいては、移民系のエスニックカルチャーのような、社会的マイノリティによる文化というニュアンスが強い言葉です。でも日本では、そういうニュアンスは抜いて使われていますね。
 日本では、60年代の対抗文化(カウンターカルチャー)が70年代に入って反体制的なニュアンスが消えていき、その思想性を抜いたものが資本側に吸収されて消費文化になった、というプロセスがあります。カウンター性が抜けた対抗文化が、サブカルチャーだと」
 
 カウンターカルチャーとは、社会の体制的なものに対して異議を唱えたり、抗議したりした文化をさす。アメリカだとヒッピーの人たちが開催したウッドストックでのフェス、日本だと学生運動などがわかりやすい。60年代後半に世界で同時多発的に起こった潮流だ。
 
「日本では、1972年のあさま山荘事件で新左翼に対しての希望がついえてしまったことで、カウンターカルチャーの終わりが可視化されてしまったと思います。ただそのあたりから『宝島』『POPEYE』などの雑誌が力をもってくる。『宝島』は海外のヒッピーカルチャーやカウンターカルチャーの影響からスタートしているんですけど、『POPEYE』のような雑誌が70年代を通してそういう海外文化をカタログ的に紹介していくようになります」
  
「サブ」というからには、「メイン」があるわけで、何がメインで何がサブなのか、その考え方で意味が変わってくる。
 
「このメインとサブを消費文化のレベルの中だけで考えてしまいがちなこと自体が、日本社会が政治性を意識しづらい環境であることの証明になっていると思うんです。消費文化内のメイン・サブだけでなく、たとえば最初に言ったような民族的な問題はどうなんだろう、というところまで考えたいので、本を読んだり集めたりしたいんです。自分の興味を消費文化レベルのサブカル趣味に留めておくのは、あんまりおもしろくないなって」
 
 さらに下田さんは、サブカルチャーはじつは産業構造の話でもある、と話す。
 
「アカデミズムとも違い、政治運動でもなく、かといって大衆的ポップカルチャーでもないという領域につくられた文化ーーたとえば『rockin'on』や『本の雑誌』といった雑誌は、自分たちでインディーズ的な組織をつくったところに共通性があります。どちらの雑誌も、元々はミニコミ的なところから始まり、70年代にプレサブカルチャーな存在だったものが80年代以降に花開く。80年代は、サブカルチャーの自主製作が活発になった時期でもあって、レコードをつくることがかなり自由にできるようになってきたし、自主製作レコードの流通会社が立ち上がったりしました。同人誌を売るコミケも隆盛を極めてきます。
 でもほんとうに個人で自主製作やネット販売ができるようになってしまったら、そうした小規模流通も存在感を失ってくるんですね。70年代に準備され、80年代に隆盛し、90年代以降にゆっくりと消えていく、サブカルチャーを取り巻くそういった流れがあったと思います。日本のサブカルチャーは、アマチュアによって切り開かれた流通経路で広がり、消費された文化でもあります。出版業界においても、そういう歴史があるんじゃないでしょうか」
 
 わたしが感じた、本屋さんにおけるサブカル棚の印象の由来は、ここにあるのだろう。書かれている内容ではなく、その文化の成り立ちの話なのだ。
 下田さんは、さらに広く、政治性の有無も射程に入れて、サブカルチャーを受け止めている。一方で、政治性を抜き去ったからこそ、大衆が受け入れやすく広まったという面も否めない。
 
「もちろんそうです。いってしまえば、思想性を抜いたロックみたいなものですからね。どこで売るにも、それほど不都合はない。80年代は情報メディア環境がすごく変化したので、いわゆる80年代フジテレビ的=「楽しくなければテレビじゃない!」みたいな狂騒のなかで、消費されていったんだと思います」
 
 下田さんのサブカル論は、1コマの授業を聞いたような充実と満足感があった。「みんなそれぞれの『自分が考えるサブカルチャー』というのがあるので、すごく揉めるんですよ……。事実上、今はもうサブカルなんて死語ですからね」。下田さんはそう言うけれど、わたしはさらに、人それぞれのサブカルチャーを聞いてみたくなった。否が応でも、人は自分が生きた時代とは無縁ではいられないのだ。

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む

第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
第4回 「良い本屋」ってなんだろう~日野剛広さんの話(3)~ ‎
第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜
第7回 時代が変わる、売り方も変わる〜海東正晴さんの話(2)〜
第8回 本とレコードに囲まれて〜海東正晴さんの話(3)〜
第9回 本屋さんの最終型とは〜海東正晴さんの話(4)〜
第10回 つくば科学万博のころ〜徳永直良さんの話(1)〜
第11回 四国で暮らしていたころ〜徳永直良さんの話(2)〜
題12回 つくばの本屋さんで、できること〜徳永直良さんの話(3)〜
第13回 書店員ののちに始めた新しい仕事について〜徳永直良さんの話(4)〜
第14回 落ち穂拾いの日々〜徳永直良さんの話(5)〜
第15回 書店員として働きはじめたころ〜下田裕之さんの話(1
第16回 早春書店を立ち上げるまで〜下田裕之さんの話(2)
第17回 80年代のことしか考えていなかった〜下田裕之さんの話(3)


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第17回 80年代のことしか考えていなかった〜下田裕之さんの話(3)


 
 下田裕之さんは、1984年、兵庫県伊丹市に生まれた。その1ヶ月後には東京の中目黒に引っ越し、4〜5歳くらいまで過ごす。その後、埼玉の浦和市(現・さいたま市)に移り、小・中・高校まで通った。下田さんにとって忘れがたく、のちの人生に大きな影響を与え続けているのが、80年代半ばから末期にかけて過ごした中目黒での記憶だ。
 
「中目黒や祐天寺あたりの風景にインパクトがあったことを覚えています。住んでいたのは社宅なんですが、そのまわりの風景の密度がものすごく濃かった。小学生以降を過ごした埼玉の浦和はいわゆるベッドタウンで、当時は商業施設があるわけでもなく、“郊外”という感じの住宅地で、その何もなさが子どもごころにはけっこうショックでした。それで、幼少期を過ごした東京の雑然とした、情報量が多い感じを恋しく思うようになったんだと思います。
 当時は、そうした思いを言語化できなかったんですけど、成長するにつれて80年代がすごく遠くに感じてきました。思春期に入るくらいの12〜3歳のときは、まだインターネットも普及していなくて、過去の情報や動画を簡単に見られる状況になかったこともあって、80年代の音楽や本に対して距離感とかノスタルジーが交じった感覚をもつようになってきたんです。そうした漠然とした自分のノスタルジーを掘り起こしたいというのが、古本屋やカルチャーに興味をもつきっかけになりました」
 
 下田さんにとっては、東京で過ごした数年の幼少期がかなり濃密で刺激的な時期だったのだろう。その後、郊外に引っ越して風景や環境が変わったこともあって、より一層、記憶が濃縮されたのかもしれない。以降、寝ても覚めても80年代のことを考えるようになる。
 
「中学、高校と古本屋に通うようになってからは、80年代の雑誌に載っている当時の風景の写真を見るのがすごく楽しくて。当然、まわりの同世代とはまったく話が合わないし、親からは不気味がられていました。当時は80年代なんて、つい10年ほど前だから懐かしがるほどのことでもないですからね。
 北浦和にディスクユニオンがあって、思春期のころは通い詰めました。金もないのでそんなには買えないですけど、レコードやCDを見て、逆に言ったらそういうのに必死にならないと、中目黒あたりを歩いたら文化的なものがいろいろあるのに、自分が住んでいる場所はそんな状況じゃない……という落差が苦しくて。80年代といえば東京、というように自分の中ではなっていきました。そういう少年期でした」
 
 中学生のころは、リアルタイムの音楽を聴いていたこともあった。電気グルーヴやコーネリアスが名盤といわれるアルバムを出した時期だ。『A』(電気グルーヴ/1997年5月発売)、『ファンタズマ』(コーネリアス/1997年8月発売)の2枚を中学1年生のころに聴いたことが、ポップミュージックにハマるきかっけになった。
 
「電気グルーヴがすごく好きになって、メンバーがかつてやっていたバンドがあるらしいと本を読んで知り、その所属が80年代にできたナゴムレコードというインディーレーベルで、それを主宰していたのがケラさんで、そのケラさんがやっていた有頂天というバンドを聴いたら、80年代のテクノポップが好きになって……」
 
 結局、行き着く先は80年代の音楽になる。下田さんは80年代の魅惑に抗うことができない。沼である。
 
「さかのぼっていった感じですね。4〜5歳くらいまでの東京の記憶と、有頂天の音楽はすごくフィットしていて、あのころの感じがした。今でも、初めて部屋でCDをかけたときのことをよく覚えています。それから有頂天のことを調べたい、ケラさんが紹介している本を読んだり映画を観たり、当時の雑誌を探して神保町に通うことが始まりました」
 
 そんな経緯から、下田さんは「小説好きな人たちとは読書体験が違いすぎるんですよね…」と言うが、自宅には本がたくさんあり、とくに母親から受けた影響は少なくないという。
 
「母は音楽や映画、文学が好きな人で、ジョン・アーヴィングがいろいろあったり、唐十郎の戯曲や淀川長治の映画の本があったり、ロック好きなんで『ミュージックマガジン』のバックナンバーがずらっと並んでいたりしました。ロックと映画と英米文学ですね。
 本はよく買ってくれました。絵本は、佐々木マキとか長新太とか、なぜかちょっとストレンジなものを与えられて、のちの自分の好みにかなり作用しています。小学生のころは『エルマーの冒険』とか児童文学を読んでいたんですが、高学年のときに図書室で読んだ『合成怪物』(レイモンド・F・ジョーンズ)というSFは相当なインパクトでした。身体を失っても脳だけで生き続けるという話で、60年代の作品です。児童文学から英米文学にはいかなくて、どうしてもアングラなほうに興味がいく。中高生のころは、筒井康隆とか、60〜70年代の日本SF作品を文庫で読んだりしていました」
 
 加えて、下田さんにとって避けて通れなかったのは、ウルトラマンや仮面ライダーといった特撮作品だ。
 
「幼少期、80年代の特撮も観ていましたが、ちょうどレンタルビデオが普及してきた時期で、60〜70年代の作品がレンタルビデオ店に並ぶようになりました。それらの“60年代の画質”が好きで、ここでも時代がずれているんですけど。
 80年代のちゃんと整理された作品と違って、たとえば『仮面ライダー』の最初のころは怪奇ドラマの演出がとられているからけっこう不気味で、でもそれがすごく好きでした。『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』では、脚本家に沖縄出身の方(金城哲夫氏)がいたから、本島と沖縄の社会問題が物語に重なるような回があって、当時は意味はわからないけど刷り込みにはなりますよね」
 
 人間は、幼少期から現在までに吸収してきたものでできている。文字を読み、映像を観たときの体験や感情の記憶は、ほんとうに尊い。下田さんは、そうした記憶を貪欲に積み重ねていっている。出発点は中目黒かもしれないが、浦和も重要なファクターのように思える。
 
「もしかしたら、ずっと東京で暮らしていたら、ちがう方向にいったかもしれないです。東京で生まれ育って大人になった人たちにとっては、僕にとっての幼少期の記憶のような状況が当たり前の光景で、日常かもしれない。でも、こういってはなんですけど、落差があるところに引っ越してしまったので、あの濃密な記憶はなんだったのかってことを考え続けている。大人になってから、当時住んでいた中目黒のあたりに行ってみましたけど、好きな町だなあとは思いましたが、自分の居場所というわけでもない。どこへ行ってもしっくりくるところはない、という感覚はずっとあります」。

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第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
第4回 「良い本屋」ってなんだろう~日野剛広さんの話(3)~ ‎
第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜
第7回 時代が変わる、売り方も変わる〜海東正晴さんの話(2)〜
第8回 本とレコードに囲まれて〜海東正晴さんの話(3)〜
第9回 本屋さんの最終型とは〜海東正晴さんの話(4)〜
第10回 つくば科学万博のころ〜徳永直良さんの話(1)〜
第11回 四国で暮らしていたころ〜徳永直良さんの話(2)〜
題12回 つくばの本屋さんで、できること〜徳永直良さんの話(3)〜
第13回 書店員ののちに始めた新しい仕事について〜徳永直良さんの話(4)〜
第14回 落ち穂拾いの日々〜徳永直良さんの話(5)〜
第15回 書店員として働きはじめたころ〜下田裕之さんの話(1
第16回 早春書店を立ち上げるまで〜下田裕之さんの話(2)


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

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第16回 早春書店を立ち上げるまで〜下田裕之さんの話(2)


 
 下田裕之さんが、勤めていたジュンク堂書店を退社したのは2018年2月。2016年に店長となった立川店が最後の店となった。大書店を辞めて自分の店を持とうと思ったのは、「自分で選択できる領域」を求めてのことだ。
 
「2010年代に書店員として働いていた間、考え続けていたのは、ネットが普及してきたことで、90年代的なメガストアにインフラとしてどんな役割があるのか、ということです。サラリーマンの立場の書店員には、会社の中にあるいろいろな事情やしがらみと戦いながら、考えたりがんばったりしている人はすごくいっぱいいます。ある程度の権限を持っていないと、会社の中で自由に動くことは難しいですから、しんどいなと思っている書店員も多いはずです。
 僕自身は、大きな会社でたくさんの人の意見を聞いて回していくという能力がないと思っています。これはある意味、敗北宣言なんですけど、大きい会社を劇的に動かしていく力は自分にはない。それよりは、自分が言いたいことをアウトプットできる場所をつくったほうが他の人の役にも立つような気がしたんです」
 
 下田さんが、そう思い始めたのは2015年ごろからだ。
 安保法制(平和安全法制関連2法)が可決され(2016年施行)、この動きに対して、社会に目を向ける若い世代の集まりであるSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)が出てきた。
 
「僕は80年代サブカルチャーがすごく好きで、その好きなことについて調べたり本を読んだりすることと、社会で働くのは別腹という感覚でした。会社で仕事をする“表”と、趣味の“裏”は別の領域。でも、この表と裏の二層構造でやっていくには土台がないとできないわけで、その土台である社会がだいぶおかしなことになっている、と気づき始めたんです。
 当時、インターネットで文章を書き始めてみたらリアクションをもらうことも増えて、自分が思っていることを趣味の領域に留めておくよりは、表に出したほうが他人の役に立つかもしれないという気がしてきました」
 
 そうこうしているうちにも、社会情勢はどんどんひどいことになっていく。自分にできることのなかで、もうすこし意志的に行動したり、何かを表明したりできるやり方はなんだろうと考えた結果、下田さんは小さい本屋さんの道を選んだ。
 
「大きな会社をどんどん動かし回していくような人間だったらよかったんですけど、自分にはできなかった。だからせめて、小さい場所をつくったときは自分の責任や判断で、ものを言おうと思っています」
 
 下田さんは自分の店を開く前、吉祥寺の「よみた屋」という古書店で働いた。お客さんとしては古書店になじみがあったが、働いたことはない。いきなり自分の店を立ち上げるには無理があった。
 
「『よみた屋』の澄田さんは『古本屋になろう!』(青弓社)という本を出していて、古本屋の開き方、経営、値の付け方、棚の作り方などが書いてあるんです。これを読んだら最低限、方法論が理解できる。まさに、僕が新刊書店で働いているときに、あったらいいなと思っていた書店仕事のメソッド化です」
 
 独立することを前提に入社させてもらい、社員として雇われた。本には技術論的なことはすべて書かれていたが、実際にできるかどうかは別の話だ。澄田さんがお客さんのところに買い取りに行くのを後ろからついていって、実地を体験した。
 
「僕自身は理解も知識もまだまだですが、いた期間の中でみっちり現場の仕事を教えてもらったという感じです。現場に行って、お客さんとコミュニケーションをとりながら、見るべきところを見て時間内に値付けをするというのは、実際にやらないとわからないです。
 これは僕の解釈ですが、古書の値付けは、自分の店に来るお客さんの顔ぶれとか、店でどんな本をどれくらいの期間残しておきたいのか、というのを関連付けて値段を決めていく。新刊書店でもそうでしたが、ある程度の体系が頭に入っていないと、いちいち調べていたら仕事が終わりません。古本の場合は調べても情報がなかなか出てこないことがあるから、経験が大事になってきます。澄田さんは、経験も積み重なっているし、市場での価格の知識など、参照点がすごくいっぱいあるんです。どんなボールがきてもぜんぶ打ち返すことができる」
 
 新刊書店では値段が決まっている本を売る。古書店では自分自身で値段をつける。
 下田さんのなかで、本を見る目が変わったりしたのだろうか。
 
「新刊書店では、理屈の上では、予算と権限があれば仕入れたい本が仕入れられるし、自分の意志を棚に反映させることができます。でも古書店は基本的に、他の人の本をいただいて並べるので、自意識なんて反映させられない。じゃあどこで変わってくるのかといえば、店主がどんな人と、どんなコミュニケーションをとるのか、だと思います。そのコミュニケーションの経過が、棚に反映される。
 本を売ろうとしている人の動機は、必ずしも単純ではなくて、グラデーションがかかっているんですね。相手が何を大事にしているか、何を求めているかをくみとって、期待に応じたレスポンスを返せないと、だんだん人は離れていく。仕入れや棚づくりについては、ここがいちばん違うところだと思います」
 
 コミュニケーションの経過が反映された棚は、日々変わっていく。ある日、奇跡の巡り合わせで最高の棚ができたとしても、それを保存することはできない。「ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず」。古書店の宿命ともいえる。
 
「自分が描いている構図をキープすることができない商売ではありますね。でもだからこそ、相互コミュニケーションを積み重ねて棚をつくっていくことで、社会に還元できる、社会のインフラとしておもしろい本屋さんができるんじゃないかと思っています。いろいろなやり方があるけど、いま自分が興味をもってやってみようと思ったことが、早春書店の形になっています。2015年以降、新しくインフラとしての本屋さんをやろうと考えた末の、ひとつの答えです」
  
 新刊書店の書店員時代の葛藤や、社会情勢の変化を経て、自分の責任と判断で立ち上げた早春書店は、下田さんの“今”でもあり、“これまで”でもある。

第15回 書店員として働きはじめたころ 〜下田裕之さんの話(1)〜


 
 2019年3月、東京都国分寺市に古本屋さんがオープンした。店名を早春書店という。店主の下田裕之さんはジュンク堂書店に10年勤めたのち、35歳で自分の店をもつことになった。これから始まるシリーズは、この下田さんの話だ。
 
 下田さんが大学を卒業してジュンク堂書店に就職し、書店員になったのは2008年。
 
「正直なところ、学生時代に自分の将来のことをきちんと考えていたわけではなかったです。音楽やったり、本読んだり、文章書いたり、そうしたことがすごく好きだったんですけど、大学を卒業したら仕事しなきゃいけない。でも専攻は哲学だったから、そんなに選択肢があるわけじゃなくて、かなり後ろ向きな気持ちで就職活動をしていました」
 
 文房具の会社など、数社をぽつぽつと受けたりしたなかで、大手新刊書店のチェーン店であるジュンク堂書店に応募、面接までたどりつく。
 
「ぜったい書店員になるぞっていう強い気持ちじゃなくて、募集していたから応募したという感じで……。でも、ジュンク堂の面接は、面接官とちゃんと会話のキャッチボールができた記憶があります。志望動機とかではなく、どんなことが好きなのかを聞かれて、80年代のサブカルチャーが好きなんですよって話をした気がします。うろ覚えですけど」
 
 面接が無事に通ると、入社前年の夏、インターンとして1ヶ月ほど働いた。それまで本屋さんでのバイト経験はなく、何もかもが初体験でうまくいかなかったが、とにかく一生懸命やった。ちゃんと真面目にやろうと思った。
 
「それまでずっとふわふわしていたんで、一人前になりたいって思いながら働いていました。社会的にちゃんとしたいって」
 
 2008年に正式に入社すると、池袋店に配属され、芸術書の担当になった。先輩の下について仕事を覚えるはずが、その先輩が退職、入社して数ヶ月でフロア長になる。さらにその直後には、新規開店する店舗に行って棚をつくる「新店作業」を割りふられる。怒濤の展開だ。右も左もわからないうちに、新しい仕事の渦に飲み込まれている。わけがわからない。
 
「新店作業というのは、どういう本を入れるか考え、注文をかけて、あとはひたすら事務処理と力仕事です。商品が期日までに入っているか確認しながら、みんなで一斉に検品したり。本が入荷したら箱を開けて棚に並べる、レジなどの備品を用意、といったことを並行して進めていきます。
 僕の入社がジュンク堂の出店ラッシュの時期とちょうど重なっていたので、多いときには2〜3ヶ月に1回はどこかに出張していました。最終的に20店舗以上関わったと思います。いろんな場所に行けておもしろかったですけど、ずっとひとつの店を守って本屋の仕事をするみたいな状況は、どうやら自分にはなさそうだぞと感じました」
 
 入社して、いきなりの激務である。
 下田さん自身が入社したばかりで書店員としての仕事のやり方が試行錯誤な上に、新店舗で奮闘する新人さんからの相談を受けることもあった。そのときに感じたのが、書店員の仕事のノウハウを、どうやって伝えていくかということだ。
 経験さえ積めば、誰でもできる仕事なのだろうか。
 
「個人的には、方法論を教えれば、どんな人でもできると思います。ただその方法論を組み立てることが、けっこう難しい。
 まず、実際に読んでいなくても頭の中にある程度、各ジャンルの体系的な知識が、どう枝葉で分かれているかを知ること。その最低限の地図がないと、いちいち調べていたら物理的に時間が間に合わない。次に、その地図を元に身体を動かす。首から上の知識と、首から下の丈夫な身体、両方がないといけないんですけど、これを教育して伝えていくのは、かなりたいへんです。でもこの教育方法を組み立てられたら、たぶん幸せになる人がいっぱいいると思うんですよね。
 根本的な本屋の仕事は、どこもそう変わらないので、この方法論の外側にそれぞれの会社や店のやり方をくっつけていくイメージです」
 
 下田さんには、日々一緒にいて担当ジャンルの知識を指導してくれる存在はいなかったが、お世話になった先輩はいた。
 
「僕は学生時代、古本にばかり興味が向いていて、最新の状況がどうなっているかをあまりおさえていなかったんですね。その先輩は、首から上も下もどっちも動く、処理能力が高い人で、新刊書店で最新の情報をおさえる術をもっていました。新刊書店員って、こういうことかって思いました」
 
 ジュンク堂書店は、「駅から1.5等地くらいの場所に位置して誰でもアクセスしやすく、蔵書量が図書館的にあって、行けばとりあえず一通りのことは調べることができる」ことをビジネスモデルとしているという。
 
「当時よく言われたのは、多面出しするなということでした。つまり、一冊の本を集中的に売るんじゃなくて、インフラになれっていうことなんだろうと僕は解釈したんですね。そこに行けば検索できて、来た人が自分に必要なものをピックアップできるような状態をつくる。世の中のことを勉強できる社会のインフラであるのが、本屋の良い側面なんだと」
 
 下田さんは、2016年に立川店の店長となる。ワンフロア1000坪という巨大な店だ。フェアやイベントの企画を立てたり、仕事の内容も自由度が高かったが、2年後の2018年に退社。自分の店をもつべく、準備にとりかかる。
 
「大きい店じゃなくて、小さい店がやりたい、という気持ちからではないです。結果的に小さい店になっているだけで、小さくあらねばと思っているわけじゃない。自分で選択できる領域をつくらないといけないというのがまずあって、僕の場合はこの選択だったという感じですね」
 
 2015年ごろから、下田さんは意志的に行動して、何かを表明するやり方を模索しはじめる。ものの考え方が変わるきっかけがあったのだ。

第14回 落ち穂拾いの日々〜徳永直良さんの話(5)〜


 
いま、徳永直良さんは、かなり頻繁にブックオフに通っている。買うのはもっぱら108円の文庫本だ。
 
「2016年2月に友朋堂が閉店して、7月から『ポリテクセンター茨城』に通うようになりました。その近くにブックオフが2軒あるんですね。平日ポリテクに行って、土日は休みで、その合間に履歴書を送ったり就職活動はするんですが、まあ比較的時間があるんです。それで行き始めて。当初は理工書や資格書、ビルメンテナンス関連の本を買っていたんですが、今は108円の文庫がほとんどです」
 
 ブックオフに通うようになったのは、書店員を辞めてからだという。
 
「ひとり暮らしのときは、入ってくるお金は本と食べものとパソコン関連に使っていました。自分が働いている本屋さんに払い戻しているようなものです。
 でも、2000年に結婚してからはそうもいかなくなって……そうなるのはたぶん自分だけじゃないと思いますけど。基本的には、子どもと一緒に図書館に行って自分も借りて読む、もしくはゲオでレンタルするようになりました。自分の仕事の目的が“本を買ってもらう”ことなのに、自分のライフスタイルは“本を買う”ことができなくなっているわけだから、すごい矛盾です。自分がやっていることは、自分の仕事の首を絞めてる。そういう自身への裏切りの気持ちがありました。書店員を辞めて、そのカセが外れたのかな、いまブックオフで本を買っているのは」
 
 徳永さんはブックオフで買った本を、ツイッターで「#購入本覚え」のハッシュタグを付けて、表紙の画像と書名・著者名・出版社名を投稿している。一度に20〜30冊、平均して3〜4日おきだ。買う本は、小説、SF、ミステリ、実用、ノンフィクション、エッセイなど、国内外、発行年の新旧問わず、とにかく幅広いジャンルを網羅している。この作家が好きなんだなとか、この分野に思い入れがあるんだな、といった憶測がまるで成り立たない。個人の蔵書というよりは、古本屋さんのようなラインナップだ。
 
「まあ、古本屋さんをやりたいから買っているというのがありますが……でもわかりません。小心者なんですよ。この買った本をどうするんだろって思いながら、先が見えないまま在庫が増えている感じ……です。インプットだけしてアウトプットはどうするのよって奥さんに言われています。商品にならないような状態が悪いものは買わないし、将来、副業になればいいなと思いながらやってはいるけど、踏み出せていないというか、怖がっているというか……」
  
 一方で、背中を押されたできごともあった。 
 2016年7月、閉店した友朋堂吾妻店の店内で一箱古本市が開催された。このときに徳永さんは出店し、1冊1冊におすすめポイントを書いた。このときからブックオフで文庫を集めていたので、とくに好きな妹尾河童さんの文庫本に力を入れ、全体では出品した8割ほどを売り上げたという。
 
「このときの売れた楽しさがなかったら、108円文庫を買うのを続けていないかもしれません。ちょっと夢をみちゃった状態が続いていて、とりあえず弾数(たまかず)を増やしておこうと」
 
 電子書籍ではなく、現物の本を集めていることにも理由がないわけではない。
 
「たとえば、解説は誰が書いているか、謝辞や出版の経緯といったことは、ネットではなかなかわからないですよね。電子書籍になったとき、帯はないし、あとがきは入っていても解説が入らないということもあります。紙の本がそのまま残るわけではないので、本としての総体みたいなものは電子化されていないんです。だから元本、現物があることには、やはり意味がある。その意味がお金になるかどうかはわからないけど、新刊書店で本を触ってきた者からすると、電子と現物は違う。それが集めている理由のひとつでもあります。
 単行本と文庫でも、単行本に値がつくのはわかりますが、文庫化された後のほうが、書き直しがあったり、解説が増えたり、文庫なりの良さがありますね」
 
 ブックオフで文庫を買っていることを、「落ち穂拾いをしている」と徳永さんは言う。
 
「このまま自分個人の在庫になって歳をとったときに読むのか、奥さんに怒られながらブックオフに売りに行くのか。自己満足で終わるかもしれないし、そうなるかもなと思いながら買っています。古本屋さんをやるのかやらないのか、やるならどんな形でやるのかは……ちょっといまとりあえず逃げてます」
 
 この取材は、2回に分けて違う日に、お話を聞いた。1回目に、鉄道に興味があるという話をすこししたら、2回目のときに徳永さんは本を1冊、持ってきてくれた。『線路工手の唄が聞えた』(橋本克彦・著/文春文庫)。
 線路工手とは、レールを安定させるために道床(枕木を支える砂利や砕石)の調整をする人のことで、4人一組での作業になるため、互いの呼吸を合わせる目的で唄があった。これを「道床つき固め音頭」といい、時代や土地柄によって、さまざまな節回しがあったという。日本に鉄道が開通した明治初期から昭和30年代ごろまでの話で、当時の社会情勢や路線事情などが詳細につづられていて、かなりマニアックで読み応えがあるノンフィクションだった。
 言うまでもないが、徳永さんの108円文庫コレクションの中の一冊である。初対面で数時間話しただけで、こんなに自分の興味ジャストの本を選んでくれた眼力にひれ伏すしかない。たとえ職業が変わっても、徳永さんはたぶん、死ぬまで書店員なのだ。
 

第13回 書店員ののちに始めた新しい仕事について〜徳永直良さんの話(4)〜


 
 2016年、勤めていた友朋堂書店が閉店し、徳永直良さんは次の職を探し始める。
「ポリテクセンター茨城」という雇用支援をする施設で半年間、職業訓練を受けて、翌年、第二種電気工事士という資格をとった。「一般住宅・店舗など600ボルト以下で受電する設備工事に従事できる資格」で、コンセント工事などに必要になってくる。
 なぜこの資格に目をつけたのか。
 
「2011年の東日本大震災で、電気の意味が変わったと思うんです。電気が通貨の役割を果たすようになった、と。
 2012年に車を買い換えることになって、電気自動車にしました。三菱の i-MiEVという軽自動車。価格は300万くらいするんですが、それまでガソリン代が月8000〜1万円かかっていたのが、月500円になるんです。いろいろプランを付けてもプラス2000円くらい。毎月6000〜8000円は浮くんですよ。
 2016年ころからは、街中に急速充電器スポットが増えてきて、充電するにも不自由がなくなってきました。車は電気で走り、街中で充電すると、V2H(Vehicle to Home:車両から家へ)といって家でも電気として使えるんです。HEMS(ホームエネルギーマネジメントシステム)というシステムがあって、うまくつなげれば洗濯機や冷蔵庫などの家電を動かすことができる。つまり、車が走る充電池になるわけです。
 もともとは、前に乗っていた車のエンジンが壊れたけど、車のことはまったく詳しくないから、どうしてダメになったのかもわからず、じゃあエンジンがない車にしようってことで i-MiEVを買ったんです。それで電気のことを考えるようになって、おもしろいって気づきました」
 
 徳永さんはいま、ビルメンテナンスの仕事に就いている。仕事内容は、各種設備がちゃんと動いているかどうかといった点検と記録が多いが、整備したり、配線するには、資格が必要になってくる。
 
「たとえば、ビル内の蛍光灯が点かなくなって、新しいものに換えても点かない。その場合は、蛍光灯の中に入っている安定器という別の回路を取り替えることになります。これはコンセントの中をいじるのと同じなので、電気工事士の資格がないとできないんです」
 
 ビルメンテナンスの仕事は、電気通信や空調、給排水などの設備を点検・管理したり、清掃、防火防災、警備など多岐にわたる。オフィスビルや駅ビルなどを毎日のように使っていて、トイレの水が流れ、空調が適宜効いていて、エレベーターやエスカレーターがちゃんと動いているのが当たり前のように感じているが、もちろんそれらは人が働いているから成り立っている。仕事内容が多種多様なだけに、「ビルメンテナンスの4点セット」と呼ばれる資格があるという。
 第二種電気工事士のほかに、二級ボイラー技士、危険物取扱者乙種4類、第三種冷凍機械責任者の4つだ。これらの資格がなくても働くことはできるが、取得しておいたほうが仕事の幅も広がるし、職にも就きやすい。
 徳永さんは、第二種電気工事士を取得したのち、働きながら他の資格に取り組み、二級ボイラーと危険物を取得、冷凍機もあと一科目を残すのみだ。加えて、2年の実務経験が必要だった一級ボイラー技士の免許も、最近取得できた。
 素人からすると、それぞれどんなときに必要な資格なのか、よくわからない。徳永さんの話を聞いて、空調設備をどうにかするための資格、のような気がする。
 
「そうです。この仕事に就いて初めて認識したのが『冷熱源』のことです。自分の家だとエアコン1台あればすむことなんですけど、大きなビルになると冷房にも暖房にも源が必要なんですね。『熱』はボイラー、つまりはやかんに水をいれて熱して蒸気を発生させるやつです。『冷』も、ある意味ボイラーなんですが、むかしはフロンを使っていて……このあたりちゃんと説明できないな……冷凍機の資格が取れていないだけに…」
 
 現在のビルメンテナンスの仕事の話を聞いていると、書店員のときとは、まったく別の頭の使い方をしているようにみえる。
 
「ビルメンテナンス自体がサービス業ではあるんですよ。直接の相手が個人のお客さんではないんですけど。自分は電気の知識とか、まだ全然全然足りていなくて、百のうちの一にもなっていない感じですが、ビルメンテをサービス業ととらえる人とそうではない人がいる気がします。団塊の世代がちょうど辞めていくときで、過渡期なんでしょうね。本屋さんも過渡期だけど、この業界も過渡期です」
 
 再就職のことを考えるとき、今の職種以外のことを考えることはなかったのだろうか。たとえば、書店員とか。
 
「うーん、いやいろいろ……というか、本屋さんにも行きましたよ。地元にある出版社とかも。でもたぶん年齢でダメだったんだろうと思います。ただ逆に言うと、転職した当時は53歳でしたが、そのタイミングでよかった。60まで働いて、もう仕事ないって言われても、どうにもならなかったなって。今の会社では正社員にしてもらえましたが、自分の後にポリテクセンターから40代が4人入ってきました。自分が後だったら50代は雇わなかったでしょう。タイミング的にぎりぎりでした。
 そう考えると、本屋さんって経営者はいいけれど店員は……何もないじゃないですか。たとえ店が運良く続いても、いまは運良く続くのさえ難しいわけですけど、60になったら終わる。書店員をやったことを後悔しているわけじゃないですが、いま、この仕事をやり始めて、20年若かったら将来的に違うものが見えてきたなって思うんです。自分はほんとに何も考えていなかったから言っておきたいんですけど、書店員プラスアルファはやっておいたほうがいいと思う。将来設計を考えてほしい」
 
 30年、書店員として働いたのちの情熱と冷静が同居していて、その葛藤が伝わってくる。書店員を辞めても人生は続くのだ。

第12回 つくばの本屋さんで、できること〜徳永直良さんの話(3)〜


 
 今回の取材時、徳永直良さんに会う前に、わたしは友朋堂書店の吾妻店に立ち寄ってみた。つくば駅から、エキスポセンター内にある実物大モデルのH2ロケットを見ながら歩く。
 区画整理された住宅地を抜けると、「本」というネオンサインのポールが立っている。すごく高いポールだ。平屋建ての店のガラスドアには「小さな手袋の忘れものをお預かりしています」とイラストを添えた紙が貼ってあり(2月だった)、書店員さんたちの温かみが伝わってきた。
 中に入ると、まず雑誌コーナーがあり、郷土出版物や岩波文庫が棚に並んでいる。空いている棚も少なくないなかで、筑波書林のふるさと文庫シリーズは充実していて、定価の半額とある。『筑波研究学園都市ー頭脳都市の周辺学ー』『いばらきの銘酒地図』の2冊を買って、店を出た。
 
 徳永さんは、この吾妻店でアルバイトとして働きはじめ、1989年に社員になった。大学時代、数多くの仕事を経験した上で、本に関わる仕事がしたいと思ったという。
 
「友朋堂でアルバイトを始めたときは、大学は辞めていました。バイト時代は返品伝票を書くのが主な仕事でしたね。社員になったら、まずは雑誌です。店の入口のところで、その日入ってきた雑誌の束を解いて棚に並べる。次に書籍の新刊。雑誌は鮮度が高いものなので、まず雑誌棚をつくるのが友朋堂的な流れでした。10時開店なのに、みんな出勤してくるのが9時半だから、荷を開けて並べるのがいつも間に合わないんです。開店時にすでに棚に並んでいる店を見て、すごいなあって思っていました。
 社員になった当時は、本はよく売れました。週末、雑誌やコミックの棚のところで立ち読みする人が多くて、身動きがとれないからどうにかしてって言われたこともありました。駐車場も広くて100台以上、停められましたしね」
 
 2010年ごろから、徳永さんは独自の方法で、お客さんとやりとりしていた。ツイッターの個人アカウントで、お客さんからの要望を受け付け、友朋堂に在庫があるかどうか調べたり、本を探したり、注文を受け付けたりしていたのだ。
 
「90年代にやっていたパソコン通信のようなことができないかな、と思ったんです。ツイッターは2009年からやっていて、店アカウントではなく、個人のアカウントで友朋堂の徳永と名乗って、DMや返信でいろいろな要望や注文を受け付けていました。配達はしていないので、店に直接来る人に向けてです。買うかどうかわからないけど入れて欲しいというものに、入荷して○○の棚にあるので見てください、と返信したり。サザエさんの三河屋さんみたいな御用聞きを目指していたんです」
 
 お客さんからの要望で、店内にない本を注文するときには、お客さんの名前と連絡先を伝票に書くのだが、ツイッターだと本名を知らないことも多く、「@○○」といったアカウント名で書くこともあった。御用聞きという密なやりとりをしつつも本名を知らないという絶妙な距離感である。
 この元には、パソコン通信やBBS(電子掲示板)の経験がある。通信ネットワーク上の人たちとのやりとりに慣れがあったし、オフ会で実際に会って話した体験があったから、ツイッターでの交流も、すんなり始めることができた。
 
「何人くらいとやりとりしたのかは、わからないんですが、評判はよかったです。欲しいと思っている人に本を届ける。基本的には、書店員ができることはそういうことだと思います。新宿などの大きな街にある本屋さんとは違って、友朋堂には地面がつながっている範囲の人が来るわけですから、つくばという土地で、来てくれた人に対して何ができるのか、を考えていけば、どんな本に需要があるのか見えてきます。
 ツイッターをやっていない年配のお客さんから相談を受けて、自分ではわからなかったのでツイートして聞いてみたら、しばらくして知らない人から返事がきたことがありました。ネット上にテキストベースで残しておけば、いつか検索でひっかかることがあるかもしれないんですね。思いついたら発信しておくと、今の時代は何かにつながることがあるんだと思います」
 
 愛媛の実家から出てきて、つくばに住んだこと、大学でコンピューターに慣れ親しんだこと、そうしたことすべてが書店員としての素地になっている。本屋さんで働くことは、徳永さんのなかで無理も矛盾もなく、とてもスムーズな流れに感じた。当の本人も、とくに気負うところもなく「書店員は自分の天職だと思う」と言う。
 
「店でいろいろやってみて何かしらの成果が出ると、満足感がありました。でも自己満足的なところもあったと思います。
 たとえばシャーロック・ホームズって、謎解きを楽しんでいるスタンスですよね。変人で、人を人とも思わぬところがある。自分にもこれと近いものがある気がするんです。相手が何か探している、検索してみた、あった! となったときに、その経過にばかり集中して、人の顔を見ていないんじゃないかって。客商売が嫌いなわけじゃないんですけど、本を売るのが好き、というよりは、本に囲まれているところが好きなのかもしれないです。でも、ツイッターでのやりとりも成果はあったし……続けたかったですね」
 
 友朋堂を辞めようと思ったこと、ありますか? と聞き終わらないうちに、徳永さんは「ないです」と断言した。あまりに即答で、こちらが面食らったほどだ。
 
「仕事辞めたいとか、書店員を辞めたいと思ったことはないです。出版社的な仕事とか、本に関わる他の分野もみておけばよかったなって思うことはありますけど。あ、友朋堂の社長とケンカしたときは辞めようと思ったかな。でもまあ都合の悪いことは忘れちゃうんです。記憶力があまりいいほうではないので」
 
 その確信に満ちた答えが羨ましかった。これが30年間、同じ店で書店員を務めた重さだと思った。

第11回 四国で暮らしていたころ〜徳永直良さんの話(2)〜


 
 徳永直良さんが生まれ育ったのは、愛媛県周桑郡小松町。現在の西条市だ。
 実家周辺の地図を、自ら持参した小さなノートに書きながら説明してくれる。
 
「最寄りは予讃線の伊予小松駅で、高松と松山をつなぐ国道11号線がこう走っていて、妙之谷川が南北に流れてます。南のほうには四国でいちばん高い石鎚山があって、ここには四国八十八箇所札所の横峰寺があります」
 
 ボールペンで、黒、赤、緑と色分けして書いていく。赤で書き込むのは、近所の本屋さんだ。
 
「地域には小学校がふたつ、中学校がひとつあって、実家は中学がないほうの地区でした。中学があるほうの地区に、個人経営の小さな本屋さんが二軒。二畳分くらいの平台があって、教科書も扱っている。駐車場もない。そんな本屋さんです」
 
 家には、小学館発行の『少年少女 世界の名作文学』全50巻のセットや、子ども向けの百科事典のシリーズがあって、よく読んでいた。そうした全集が「棚でいうと6段棚が2本分くらい」あったと徳永さんは話し、風景としての本棚が目に浮かぶと同時に、書店員ならではの描写に感じ入る。
 
「いちばんはじめに買った文庫は、星新一さんの『午後の恐竜』です。伊予小松駅の売店には本も売ってて、そこで買いました。このなかに、「エデン改造計画」というショートショートがあって、良いものはコマーシャルする必要はなくて、そうしないと売れないからコマーシャルするんだ、とあって、最近読み返すまでは忘れていたんです。でもいま、テレビのコマーシャルの仕組みについて同じようなことを自分の子どもに話しているんですね。この本を読んだことが、知らず知らずに身についていたんだなと思いました。斜に構えたものの見方みたいなものが」
 
 家からすこし離れた西条高校に進学し、自転車で30分くらいかけて通うようになると、遠くの本屋さんまで回るようになった。
 描く地図が広がり、荒木書店、新潮堂、セイワ書店と書店名が赤字で書き込まれていく。
 
「高校まではフィクションしか読みませんでしたね。とくに筒井康隆は、この人の本にハズレはないと思いながら、ずいぶん読みました。あとは平井和正の『幻魔大戦』。ある意味カルト的なお話なので、青春のコンプレックスを持ち上げてくれるような気がしました。海外のものも読みましたが、影響を受けたのは日本のSFです」
 
 徳永さんの実家は、商売を営んでいた。
「店はいまのコンビニのようなもので、大きい冷蔵庫にジュースがあったり、乾物があったり。母が店番です。親父は野菜の仲買もやっていました。朝早くトラックで市場に行き、仕入れたものを他の市場やスーパーに持っていって昼ごろには帰ってくる。
 記憶に残っているのは、奈良漬け用の床をつくっていたことです。酒屋さんから仕入れた酒粕を、倉庫内に掘り下げたコンクリート製のタンクに入れて封をして、冬から夏にかけて発酵させるんです。それが奈良漬け用の酒粕になる。これを売っていました。瓜を漬けたりするんですね。2〜3メートルくらいの深さがあるタンクが5つか6つあったので、けっこう大がかりでした」
 
 徳永さんが10歳になるころには商売もうまく回りはじめた。その後、店は閉じたものの仲買の仕事を続けていたお父さんは、徳永さんが23歳のときに50歳で亡くなる。お母さんは、40歳のころから書道教室を開いていて81歳を迎えるいまも現役の師範だ。
 
「2004年に、近くの妙之谷川が大雨のときに増水して、流れてきた木や土砂が橋のところに詰まって周辺が水浸しになったんです。実家も一階は泥だらけになり、母は二階に上がって、ことなきを得たんですが、住めない状態になりました。いまは同じ家をリフォームして母がひとりで住んでいます。商売をやっていたあたりを書道教室にして、週に何回か生徒さんに教えている。何年か前には日展にも入選したんです」
 
 徳永家に文学全集や百科事典を揃えてくれたのは、お母さんだったという。お母さんは『赤毛のアン』が好きで、新潮文庫の村岡花子訳のものが何冊かあったのを、徳永さんは覚えている。
 こうした実家生活の話を聞いているうちに、大学入学時の「コンピュータに興味があってプログラムをつくりたいと思った気がする」という志望動機が、いつごろ芽生えたのかが気になってくる。
 
「中学の終わりごろに、雑誌で知ったことがきっかけでプログラム電卓を買ってもらったんです。これは関数機能で複雑な計算ができて、128ステップまでの計算手順を記憶できました。画面の7セグ表示も制御可能なので、インベーダーゲームのまねごとができたりするんです。これがけっこうおもしろかった。
 進学した西条高校には、電算機部というのがありました。電算機というのは、見た目や大きさは今のスーパーのレジと同じ感じで、出力がロール紙に印字されるところも似ています。これも簡単なプログラムが組めました。
 この部に入って、学園祭のときに相性占いをやったりしていました。先輩たちの書いたプログラムで、生年月日と名前を入れて、中で計算したふりをして、あなたと相手の相性は○%です、というのを印刷して渡す、というような。この占いでみんなが喜ぶことが楽しかったし、自分でも簡単なゲームを組んで思うように動いたときは嬉しかったですね。
 で、これにハマって、大学に入学したときに富士通FM-7というマイコン(今のパソコン)を親に買ってもらい、ゲームばかりやっていました。
 筑波大の情報学類の実習では、当時のマイコンと比べて、より大規模でパワーのある日立のメインフレームを使っていました。サイズも大きく高価なので、ひとり1台は使えず、多くのユーザーが同時にログインして、CPUやメモリ空間などを割り振って使う「タイムシェアリングシステム(TSS)方式」でしたね。
 情報学類以外の学生が使っていた計算機センターでは、三菱Multi16という16bitパソコンを使っていました。その端末を使って、誰が作ったプログラムかはわからないですが、当時のアニメ『超時空要塞マクロス』のヒロイン、リン・ミンメイを、幅広のプリンタ用紙にアスキーアートで打ち出すのが流行っていました。
 ゲームと、あと学生仲間との麻雀にもハマって…どちらにしても、大学時代は、あまり勉強しませんでしたってことになるんです……」
 
 そう話して、徳永さんはうなだれる。
 とはいえ、黎明期のころからパソコンに親しんでいたことは、のちのち陰に陽に影響してくる。90年代にはパソコン通信を始め、その経験が書店員の仕事やサービスに多くの示唆を与えたのだ。
 

第10回 つくば科学万博のころ〜徳永直良さんの話(1)〜


 
 茨城県つくば市に、友朋堂書店という本屋さんがある。
 1981年に吾妻店がオープンすると、当時、学園都市として街づくりが進みつつあったこともあって、1日で数百万を売り上げることもあるほど人がおしかけ本が売れた。棚に本を補充するのが追いつかないほどだったという。筑波研究学園都市として国の機関や研究施設、民間企業の研究所が移転してくれば、住む人も増えていく。80〜90年代には、大小の本屋さんが市内各地にできたものの、地域の書店としての地位は確かで、2000年には支店が3店舗あった。
 だが2016年2月、取次会社の太洋社の廃業にともなって閉店を余儀なくされる。突然の発表で衝撃は大きく、惜しむ声も多かったが、11日に吾妻店は店を閉じた。だが翌17年の夏ごろから再び店を開けるようになり、郷土出版物や、岩波書店の在庫などを販売している。
 
 これから始まるシリーズは、この友朋堂書店で30年近く書店員として働いた徳永直良さんの話だ。徳永さんが、故郷の愛媛県をあとにして筑波大学に入学したのは1983年。つくば科学万博を2年後に控えていたときである。
 
「当時、大学の周辺では土浦がいちばん大きな街で、駅舎が木造から建て替えられる時期でした。土浦から山を越えると、つくばなんですが、突如、公務員住宅のビルが現れて道幅が広がるんです。まわりは何もないのに、急に未来都市みたいになる。85年の万博に合わせて、その何もないところに西武百貨店ができて、映画館も入っていました。
 交通網としては、常磐線の土浦駅か荒川沖駅が最寄り駅で、そこからバス。万博の開催期間には、荒川沖のひとつ手前に万博中央駅(現・ひたち野うしく駅)という臨時駅ができて、そこから会場まで二連のバスが走っていました」
 
 筑波大学の開学は1973年、徳永さんが籍を置いた情報学類(第三学群)が設置されたのが1977年。あたらしい街の、あたらしい大学に入り、万博は目前。故郷から出てきて希望にあふれた一歩を踏み出した、と想像する。
 
「どうして筑波大学だったのかというのは……東京に近いとか、万博が見たかったとか……どうだろう、わからない…。情報学類に入ったのも、コンピュータに興味があってプログラムをつくりたいと思った気がするんですが、結局ちゃんと勉強しなかったんですよね。筑波大は6年以上はいられないので、5年次の3年生の時に中退しました」
 
 なんとなく、大学に入る前からちゃんと卒業しないような気がしていた、と徳永さんは話し、こちらの勝手な想像を吹き飛ばす。
 
「情報学類の課程は、数学も深いところまでやるし、物理学の実験もあるし、その実験は必ず違う結果になっちゃったりするし……。たとえば、ある二点間を、地図がなくても、ひらめきで行けてしまう人がいますよね。数学でも物理でも、自分にはそうしたひらめきがないんです。知識として知り道筋をつけていく、解き方を知ってから問題をあてはめて解いていく、というタイプ。計算も苦手だし、どちらかといえば文字情報のほうが好きです」
  
 大学では図書館がお気に入りで、ラテンアメリカ文学に傾倒した。現代企画室という出版社のシリーズが置いてあり、ガルシア・マルケスやフリオ・コルタサルなどを読んでいたという。それはもうむしろ文系……という思いをぐっと飲み込んで、これだけは役に立ったなって覚えていること、ありますか、と聞いてみる。
 
「『高々有限(たかだか ゆうげん)』という言葉があるんですね。数学で証明のときに使う言葉で、『せいぜい有限であって無限ではない(ので、数えられる、計算できる)』といった意味です。たしか。でもこの本来の意味じゃなくて、自分のなかでは『いつまでたっても終わりそうになくても、やり続ければいつかは終わる』という一種の処世術的な受け取り方をしていて、本屋さんの仕事をしているときにもよく思い出しました。毎日、本が山のように入荷してきて、どうやって棚に収めるんだって思うけど、分野ごとに整理していけばいつの間にか収まる、手を動かしていけば終わるって」
 
 いい話! と身を乗り出すと、「いやよくないです。本来の意味を曲げて受け取っているわけだから」と徳永さんは冷ややかだ。でも本質的には似ているように思う。数学的な厳密さをまったく持ちあわせていない人間の感想ではあるが。
  
 1985年3月に、つくば科学万博がスタートすると、徳永さんはアルバイトを始める。
 
「ゴールデンウィークにはTDK、7〜9月は東芝のパビリオンで人員整理をしました。半袖の開襟シャツの制服を着るんですけど、夏はとにかく暑くて日に焼けました。腕は真っ黒になるし、布地の厚さによって焼ける度合いも違うんです。時給は1000円で、当時としては高いですよね。街全体がお祭りで、浮かれた時代でした」
 
 その年の秋、徳永さんは1年、休学する。そして、志賀高原のスキー場のホテルで働き始めた。
 
「正月前から3か月間くらい、住み込みでレストランのウェイターをやっていました。友朋堂で求人情報誌を買って、店の前の公衆電話から応募の電話をしたんです。このバイトを選んだ理由はとくになくて、休学して時間があったから」
 
 そのほかにもアルバイトは数多く、かなりの働き者だった。
 
「今はもうないんですが、土浦の小さなホテルでフロントの夜勤をやりました。夕方に出勤して、布団を敷いたり、チェックインの受付。24時になったら締めて寝て、翌朝、朝食を出す、といった仕事です。そのホテルはメインが結婚式場で、客室は10部屋くらいだったんです。配膳の人に誘われて、式場の照明係をやったりもしました。
 あとは、牛久の電気店でエアコンの取り付けの手伝いとか、スーパーのイベントの手伝いで行ったら、声優ショーがあって杉山佳寿子さんのGu-Guガンモの声を生で聞けたりとか。筑波大の体育系研究室のつながりで、全日空のキャビンアテンダントさんが参加する体力測定のヘルプもやりました。……なんであんなにいろいろやったんだろう…当時はそうやって学業からどんどん離れていっていたんですね」
 
 最終的には中退することになるが、80年代、激動の街だったつくばで大学生活を送っていた活気が伝わってくる。徳永さんの生活は、その後も、つくばと深くつながっていくことになる。
 

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む

第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
第4回 「良い本屋」ってなんだろう~日野剛広さんの話(3)~ ‎
第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜
第7回 時代が変わる、売り方も変わる〜海東正晴さんの話(2)〜
第8回 本とレコードに囲まれて〜海東正晴さんの話(3)〜
第9回 本屋さんの最終型とは〜海東正晴さんの話(4)〜


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

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