第22回 演劇と古本屋巡りの日々〜小国貴司さんの話(3)

 
 
 
立教大学文学部に入学し、日本文学を専攻した小国さんだが、授業の出席率はあまりよくなかった。
 
「お芝居のサークルに入ったんですね。演じるだけでなく、台本書き、照明音響、演出まで、全部自分たちでやるところでした。1年間に3公演あって、4月は2年生、10月は3年生、12月は4年生最後の舞台と、メインとなる学年が変わるんです。
 公演期間中は授業は二の次で、といっても拘束されるのは2週間ほどなんで単位に影響はないんですよ。でもなんとなく、期間中以外もみんな授業いかない空気になっちゃって。学校には行くけど授業に出ない。部室に行ったり、池袋の古本屋を回ったり。何しに学校に行ってるのか……。2年生のときはたしか、通年で10単位もとりませんでした」
 
 演目はすべてオリジナルの脚本だった。当時は、キャラメルボックスやNODA MAP、劇団☆新感線などがブームだったため、サークルでは比較的ストーリーがある演劇をつくっていて、小国さんは脚本を書いたりもした。
 
「即興演劇が好きでした。台本がない状態で、シチュエーションだけをあたえられて、その場を回していくというものです。有名なのは『橋の上のエチュード』。橋の両端から人が来て、ふたりともそれぞれ向こう岸に渡りたい。でも、どちらかが譲らないと橋の上ではすれ違えない。即興でやりとりをして、対岸に行けた人が勝ちというゲームです。
 たとえば、一方の人が“向こう岸で父親が病気で死にそうなんです。すぐに行かなきゃならないから通してください”と言う。ここでもうひとりが“いや、向こう岸にお父さんはいないよ”ってこたえると話が終わっちゃいますよね。一方を否定することを言ってはいけないんです。だから“僕はちょうどその病気を治す薬を持っていますよ。向こう岸にあるから取りにいかせてください”と言うと、話が転がり始める。それを即興でやるんです」
 
 これは演劇の訓練のひとつとして、ワークショップなどでよく使われるという。見世物としてのおもしろさも意識してやらねばならず、正論だけでやりとりしていてもつまらない。この即興性は、のちに思いがけず役に立つことになる。
 
「クレーム対応とか接客にすごくつかえるんです。その場で、相手の顔や言動を見て受け答えを変えたり、ときに強く出たりっていうのは、全部、即興演劇でやることなんですよ。絶対に相手を否定しない、というのがルール。否定すると場が止まっちゃうので、相手がしたいことと、こちらがしたいことを、うまく回していくんですね。これは、リブロに入ってから気づきました」
 
 大学時代は演劇サークルに没頭する一方、古本屋さんでアルバイトをしていた。高校時代を過ごした立川から千葉県の流山に一家で引っ越したのが大学1年の夏。アルバイト先の古書店は、流鉄の平和台駅近くにあった。
 
「流山は、江戸川の水運で昔からそれなりに栄えていた街で、高級住宅街ではないけど本読みはかなりいる土地柄だと思います。働いていた古本屋にも良い本を売りにくる人が多かった。店はもうないんですが、いまのブックオフのようなチェーン店のひとつでした。大学2年から卒業した年の5月までいて、買い取りをやらせてもらったりしました」
 
 ほかにも、塾講師、家庭教師、飲食などかなりの数のアルバイトを経験し、最後の1年間は古本屋、家庭教師、サンシャイン60展望台のおみやげ店と3つをかけもちしていた。稼いだ金をいちばん多くつぎこんだのは、古本屋巡りだ。高校時代、立川にあった古本屋さんでそのおもしろさに開眼、大学生になると自宅や大学の近くの店をはじめ、各地を回るようになる。
 
「いちばんよく行ったのは中央線沿線です。荻窪のささま書店、西荻窪の音羽館、盛林堂、中野ブロードウェイのまんだらけ、海馬、古書ワタナベ、吉祥寺のよみた屋……名前を挙げたらきりがないほど、よく通っていました。古本屋を探すために駅を降りて散歩する、ということをただひたすらくり返していましたね。いま自分の店がある駒込も、そういう思い出がある街です。
 この20年、やっていることはまったく変わっていない気がします。日々本屋に行く、それだけを20年やってきたから、自分の店をもっているのかなって気がします。それ以外のことはやれなかった、ともいえますけど」
 

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む

第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
第4回 「良い本屋」ってなんだろう~日野剛広さんの話(3)~ ‎
第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜
第7回 時代が変わる、売り方も変わる〜海東正晴さんの話(2)〜
第8回 本とレコードに囲まれて〜海東正晴さんの話(3)〜
第9回 本屋さんの最終型とは〜海東正晴さんの話(4)〜
第10回 つくば科学万博のころ〜徳永直良さんの話(1)〜
第11回 四国で暮らしていたころ〜徳永直良さんの話(2)〜
題12回 つくばの本屋さんで、できること〜徳永直良さんの話(3)〜
第13回 書店員ののちに始めた新しい仕事について〜徳永直良さんの話(4)〜
第14回 落ち穂拾いの日々〜徳永直良さんの話(5)〜
第15回 書店員として働きはじめたころ〜下田裕之さんの話(1
第16回 早春書店を立ち上げるまで〜下田裕之さんの話(2)
第17回 80年代のことしか考えていなかった〜下田裕之さんの話(3)
第18回 下田さん、サブカルってなんですか?〜下田裕之さんの話(4)
第19回 インフラとしての本屋を成立させるために〜下田裕之さんの話(5)
第20回 新刊と古書を置く店をつくる〜小国貴司さんの話(1)
第21回 札幌、八戸、立川に暮らしたころ〜小国貴司さんの話(2)


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第21回 札幌、八戸、立川に暮らしたころ〜小国貴司さんの話(2)

 
 
 小国貴司さんは、小学校・中学校・高校とそれぞれ違う土地で暮らしている。生まれたのは山形県だが、小学2年生から卒業までは札幌、中学は八戸、高校は立川だった。
 札幌で過ごした小学生時代は、80年代後半から90年代前半、ちょうど超能力や大予言がはやっていたころだった。
 
「当時は、学校図書館でオカルト関連の本や、図鑑をよく見ていました。図鑑シリーズのなかでは、宇宙が好きでしたね。あとは漫画。手塚治虫の『ブッダ』は、親が1巻を買ってきてから、めっちゃ読んでました。愛蔵版で、今でも実家にあります」
 
 中学に進むと八戸へ。青森県の太平洋沿岸部に位置し、さほどの豪雪地帯ではないが、「やませ」がふく。東北地方の太平洋側で春から夏にかけてふく東寄りの風で、寒流の上を渡ってくるためにとても冷たい。小国さんは、この「やませ」を体感し、ほんとうに寒かったと話す。
 
「札幌から八戸に来て、はじめは言葉がまったくわかりませんでした。同級生が言っていることはまあまあわかるんですけど、年配の方のは100聞いて95わからないこともあって。英語の先生が、かなりのおじいちゃんで、日本語よりも英語のほうがわかるんじゃないかって思ってましたね。でも半年も経つとほぼ聞き取れるようになって、1年後には自分でもしゃべるようになっていたので、不思議なものです。
 その後、立川に引っ越して高校に入ると、自分の言葉が通じないこともあり得るので、最初の1カ月くらいは寡黙なキャラだった気がします。ひたすらまわりの言葉を聞いていました」
 
 八戸では、徒歩圏内に1軒、車で行く距離に3軒、よく行く新刊書店があった。中学では時代小説を読みふけっていたという。
 
「歴史が好きだったんですね。10代で歴史好きといえば、たいてい幕末か戦国時代ですけど、ご多分にもれず幕末でした。池波正太郎と山本周五郎。ある程度、史実を描いていたり、実在した人物が出てくる小説を読みました。池波正太郎だとイチオシは『幕末遊撃隊』。ちょう好きでした。あと『幕末新撰組』、これもちょう好きです」
 
 もうひとつ、中学のときに身も心も捧げたのはゲームだった。
 
「コーエーってあるじゃないですか。ゲームソフト開発会社で、『信長の野望』シリーズが有名ですけど、このコーエーのシミュレーションゲームが好きでした。当時のゲームソフトは、今だったらゲーム機そのものが買えるくらいの高値だったんですけど、コーエーのソフトはそこからさらに一段階高い。だから最新のものは、クリスマスとか誕生日のときに買ってもらうのがやっとで、あとは中古のソフトを買ってきては、ひたすらやりこむ。コーエーのシミュレーションゲームだけを」
 
 話に熱が入ってきた。
 ーー今でも覚えているソフトってありますか。
 
「コンピュータのハードウエアを売る会社のトップになって、その会社を運営していくやつ(『トップマネジメント』)です。最初はデスクトップを売って、体力がついてくるとラップトップを開発して売ったりするんですね。ラップトップが何かわからなくて、8つ上の兄に聞いたりしました。新商品をいつ投入するのか、そのタイミングをあやまると売上げが激減したりします。他社と競ったりするし、かなり細かい数字も出てきて、経常利益を上げていくのが目的なんです。……これはあまり知られていないゲームかもしれません。まわりはみんなストツーをやってたし」
  
 中学生がまず選びそうにないセレクトではある。かなり渋い。
 
「あとは、アメリカの独立戦争のシミュレーションゲーム(『独立戦争 Liberty or Death』)。独立側でもイギリス側でも、どちらもプレイできて、13州を統一すると終了です。物資が恵まれているのはイギリス側だけど、将兵の質が高いのは独立側で、前半はイギリスが圧倒的に有利。ゲームとしては独立側のほうが難しいので、独立側でプレイしていました。やっていくと、アメリカ独立戦争ってヨーロッパの代理戦争だったんだなあってわかってくるんです。独立側がフランスなんですね。そうやって歴史が知りたくなって、本屋さんに行って独立戦争について書かれている本を探したりしました」
  
 小国さんにとってゲームとはすなわちシミュレーションゲームだった。高校になると、ゲーム機がスーパーファミコンから、プレイステーションやセガサターンに移っていったこともあって、コーエー熱は冷めていく。
 八戸から東京都内の立川に引っ越し、入学した高校は進学校ではあったが、かなり自由な校風だった。生徒会や文化祭などの校内行事は予算分配も含めてすべて生徒が運営し、先生は授業をするだけの存在。選挙で選ばれた生徒会が学校自治を取り仕切り、予算が適正に使われているかどうかなどのチェックをする報道機関として新聞部がある、という模擬国家のような仕組みだったという。
 
「高校生になって、ようやく文学系のものを読むようになりました。覚えているのは教科書で読んだ、阿部昭の『自転車』。こんなおもしろい話があるのかと興味をもつようになって、現代文の先生もいい先生で授業も楽しかったんです」
 
 くわえて、当時、住んでいた自宅の隣が本屋、という夢のような立地もあって、その店に毎日立ち寄るようになる。
 
「本屋といっても、レンタルビデオと新刊書店が同じフロアにある業態で、とくに気の利いたものでもなかったんですけど、とりあえず新刊をチェックすることはできるので、学校の帰りに毎日行っていました。あと、近所に古本屋も一軒できて、そこで吉行淳之介、原田宗典、五木寛之などのエッセイを買っていました。いきなり小説にはいかなくて、このころはエッセイが好きだったんですよ。村上龍や村上春樹といった王道も読みましたけど」
 
 現代文の授業の影響もあって、小国さんは大学で小説や詩を勉強したいと思うようになる。1999年4月、立教大学に入学、日本文学を専攻した。

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む

第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
第4回 「良い本屋」ってなんだろう~日野剛広さんの話(3)~ ‎
第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜
第7回 時代が変わる、売り方も変わる〜海東正晴さんの話(2)〜
第8回 本とレコードに囲まれて〜海東正晴さんの話(3)〜
第9回 本屋さんの最終型とは〜海東正晴さんの話(4)〜
第10回 つくば科学万博のころ〜徳永直良さんの話(1)〜
第11回 四国で暮らしていたころ〜徳永直良さんの話(2)〜
題12回 つくばの本屋さんで、できること〜徳永直良さんの話(3)〜
第13回 書店員ののちに始めた新しい仕事について〜徳永直良さんの話(4)〜
第14回 落ち穂拾いの日々〜徳永直良さんの話(5)〜
第15回 書店員として働きはじめたころ〜下田裕之さんの話(1
第16回 早春書店を立ち上げるまで〜下田裕之さんの話(2)
第17回 80年代のことしか考えていなかった〜下田裕之さんの話(3)
第18回 下田さん、サブカルってなんですか?〜下田裕之さんの話(4)
第19回 インフラとしての本屋を成立させるために〜下田裕之さんの話(5)
第20回 新刊と古書を置く店をつくる〜小国貴司さんの話(1)


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第20回 新刊と古書を置く店をつくる〜小国貴司さんの話(1)


『プラテーロとわたし』という本がある。
スペインの詩人ヒメネスが、ロバのプラテーロと過ごした日々を綴る散文詩で、詩人の故郷であるアンダルシア地方の太陽と海と草花がいきいきと描かれ、ふんわりとした灰色の綿毛のプラテーロに語りかけるように物語はすすんでいく。
 
「きょうの午後の空は、なんて美しいのだろうね、プラテーロ」
「そのチョウを見てごらん、プラテーロ」
 
 詩人が語りかける様子は、プラテーロへの愛おしさであふれていて胸がしめつけられる。描かれるのは日常の出来事だが、豊かな風景描写と相まって世界はあまりに美しく、美しすぎてどこかはかない。
 
 この本を教えてくれたのは、駒込にある『BOOKS青いカバ』の小国貴司さんだ。ある雑誌で書店員さんにおすすめの本をきく取材でうかがったとき、「ずっと売っていきたい大切な本です」と紹介してくれた。小国さんは、ところどころを朗読し、いかにすばらしい本か、というよりプラテーロがいかにかわいいかを力説した。本の良さはもちろん伝わってきたのだが、個人的にはこのときの朗読がなぜか頭から離れず、のちに本を読んだ際に全編が小国さんの声で再生されるほどだった。あの声は、ほんとうに本をだいじに思っている人の声だと思った。
 
 これから始まるシリーズは、この小国貴司さんのお話である。小国さんは、新刊書店の『リブロ』に13年間勤めたのち、2017年1月、駒込に『BOOKS青いカバ』を開店した。
 品揃えは古書が多いが、新刊本も置いている。店に入ってすぐの場所には、新刊が並ぶ小さな平台があり、レジ横には新刊・既刊がみっちり詰まった棚が2本。置きたい本を選んで、小規模取次を通して買い切りで仕入れたり、直取引をしている版元から委託で仕入れたりしている。ジャンルは、文芸、海外文学、社会科学、料理、画集などだ。発売して間もない新刊だけでなく、ロングセラーの既刊も交ざっている。
 
「あまりなじみがない人にとっては、古本屋さんはやっぱり入りづらいという印象をもつので、店に入ってきたときに、ぴかぴかの本があると手に取りやすいんだと思います。古い本たちの重圧感がなんとなく薄らぐ。
 でも、新刊を置くのが第一義というわけではなくて、注文をとるスタイルをやりたかったというのが、ほんとうのところです。古本だけを並べていたら、新刊の注文ができますよって言いづらいじゃないですか。新刊も並べておいたら、お客さんがほしい本があったときに、うちの店で注文してみようってなるかもしれない。自分の店を始めるときに、古本の相談もできるし新刊の取り寄せや相談もできるスタイルにしたいというのがあったんです」
 
『BOOKS青いカバ』の周辺に新刊書店が多くない、という状況もある。古書、新刊にかかわらず、本屋さん自体が減ってきている現状を考えると、古書店と新刊書店、それぞれの長所を生かした融合型の店は、本と本屋さんの底力をいかんなく発揮できるのではないか。
 
「お客さんから、この本ありますか? って聞かれた場合、古本だと棚に今なければない。0か100の世界です。新刊は電話一本で注文できるから、安く買いたいわけじゃないのであれば取り寄せられる。逆もまたしかりで、新刊で取り寄せてほしいと言われた本が絶版になっていたら、古書の在庫があるかもしれないし、なかったら探したりもできる。
 そうした選択肢をお客さんに与えられるのは、本の商売をしている者としてうれしいです。読みたいという気持ちをうまく接続させていくのが新刊書店の役割のひとつだと思うんですが、古本屋でもできることですよね」
 
 古書も新刊も、どちらも置くことに意味がある。どちらも受け入れられるということを、店の品揃えでアナウンスしているのだ。
 こうした店の形態を目指したのは、やはり『リブロ』で長く働いていたからだと思う、と小国さんは話す。当時もいまも、本の売り方として「棚から売れてほしい」というのが、変わらない思いだ。
 
『BOOKS青いカバ』が開店した年の夏、岩波文庫から『プレヴェール詩集』(小笠原豊樹訳)が発売された。小国さんはこの本を100冊入荷し、それを2週間かからず売り切った。岩波書店といえば、委託販売はせず、買い切りで書店と取引することで知られた出版社で、つまり文庫とはいえ100冊分(およそ9万)を前払いしたわけだ。当時、小国さんはツイッターで大量入荷したことを告知し、入口すぐの平台に美しく山と積まれた文庫本の写真をアップした。すると、この快挙(暴挙)を称える本好きたちが押しかけ、2週間あまりで山は崩されていった。詩集は、再入荷した今でも売れ続けているという。
 
「自分が売りたいと思うのと絶対売れると思うのが、かみ合った本でした。そうそう出てくるものではないです。絶対売れる確信なんて、ふつうの新刊にはもてないですから。でもあれは復刊だったし、リブロにいたときからずっと売りたかった詩人だし、100くらいなら1年かければなんとかなるだろうと思ったんですね。手堅く予想しての100冊なので、とくに自分の努力が実ったというわけではないんです。売る自信があって、100冊仕入れたというインパクトは広告宣伝効果にもなるので、もうやるしかなかった」
 
 とはいえ、このことを自らの勲章にしようとは思っていなくて、積んである本ではなく、棚にささっている1冊が売れることのほうが嬉しい、という。
 
「もちろん平積みにした本が売れるのはうれしいですよ。でも、毎日毎日、棚が稼働してくれるほうがうれしい。棚の本が売れるようになるお店をつくりたいってずっと思っていました。担当者の技量として、しかけがうまい人ではなくて、ロングセラーをきっちり見極めて棚をつくり、そこにお客さんがつくような人が、能力が高いと思っています。
 新刊は毎日、大量の本が入ってくるわけですけど、何を棚に残すのか、何を抜くのか、その取捨選択をきちんと考えられるかなんです。自分の店に来てくれるお客さんは、どんな本を欲しているのか、売れていくものを見て、棚をつくる」
 
 平台の『プレヴェール詩集』の山が崩されていく一方で、考え抜かれた棚から1冊が売れていく。新刊も古書も、その1冊をだいじに思うことに変わりはない。

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む

第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
第4回 「良い本屋」ってなんだろう~日野剛広さんの話(3)~ ‎
第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜
第7回 時代が変わる、売り方も変わる〜海東正晴さんの話(2)〜
第8回 本とレコードに囲まれて〜海東正晴さんの話(3)〜
第9回 本屋さんの最終型とは〜海東正晴さんの話(4)〜
第10回 つくば科学万博のころ〜徳永直良さんの話(1)〜
第11回 四国で暮らしていたころ〜徳永直良さんの話(2)〜
題12回 つくばの本屋さんで、できること〜徳永直良さんの話(3)〜
第13回 書店員ののちに始めた新しい仕事について〜徳永直良さんの話(4)〜
第14回 落ち穂拾いの日々〜徳永直良さんの話(5)〜
第15回 書店員として働きはじめたころ〜下田裕之さんの話(1
第16回 早春書店を立ち上げるまで〜下田裕之さんの話(2)
第17回 80年代のことしか考えていなかった〜下田裕之さんの話(3)
第18回 下田さん、サブカルってなんですか?〜下田裕之さんの話(4)
第19回 インフラとしての本屋を成立させるために〜下田裕之さんの話(5)


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第19回 インフラとしての本屋を成立させるために〜下田裕之さんの話(5)


 
「自分がおもしろいと思うことに自信がある」というのは、人として強い。下田裕之さんの話を聞いていると、そう感じる。作品やものごとに対して、おもしろいか、おもしろくないか、という判断は主観的なものだ。だからこそ、そこは自分勝手に、徹底して独善的な判断を下してよいはずだが、己を振り返ってみると自信の程に迷いがあるときがある。おもしろい! と盛り上がっても、気の迷いだったかな…そうでもないかな…となぜか弱気になり、他の人はそうでもないかも…とますます萎れていく。自分自身に対して、どこか言い訳めいたことを語りだす。懐疑的になって、胸を張れない自分がいる。
 
「自分の価値観のなかに、おもしろいか、おもしろくないか、というのはすごくあります。むかしから好き嫌いを整理して考える以前に、何かおもしろいものを見つけたいというモチベーションが強くあって、だから判断基準は自分のなかではっきりしています。一方で、強烈におもしろいと思えるものがないと、元気がなくなっちゃうんですけど、それってあんまり大人とはいえないでしょう? でもやっぱり、おもしろいと思うことを優先順位の上におきたいんです。だから僕は、自分がおもしろいと思うことにはめちゃくちゃ自信あります。ものすっごい自信ありますね」
 
 そう話す下田さんの目は輝いている。全体的にキラキラしている。まぶしい。
 自分がおもしろいと思ったものは、みんなもおもしろいはずっていう、そういう自信もありますか? と聞いてみる。
 
「あ、それはないです。自分自身に対して、お前これおもしろいと思うだろってプレゼンをする自信があるってことですね。他人がどう思うかはわからないです……いやでも、社会的なコミュニケーションのなかで、この人はこういうのが好きだろう、望んでいるだろう、みたいなことはわかるようになりました。
 でも自分自身をおもしろがらせること、それがないと本屋の仕事なんてできないんじゃないかと思うところはあります。不遜ながら。言葉の使い方が難しいんですけど、自我や自意識を見せつけるということじゃなくて、自分という客にとってのいちばんいい店員になる、という感じです。これおもしろいよって、ずっと自分にプレゼンし続けられたらいいなって」
 
 下田さんが立ち上げた早春書店は古書店で、新刊書店のように入荷してくる本を選ぶことはできないのに、どこか、あるべき本が並ぶべき棚に揃っている、という印象を受ける。下田さんは、自分の店でサブカルチャーを表現することを目指しているのだろうか。
 
「表現……うーん…サブカルチャーは好きだし、サブカルチャーについて考えることは自分のなかで大きなテーマですけど、店で表現するというのはちょっと違っていて…。
 僕の解釈ですが、古本屋の仕事ってひたすらコミュニケーションだと思うんですよ。新刊書店でももちろんこの面はありますが、古本屋はお客さんから本を買うプロセスもあるので、商品の流れも双方向になる。お客さんと会話したりするだけじゃなくて、本が双方向に流れ続けていくことまで含めてコミュニケーションというか。店主は、そのぐるぐる回る渦のなかのハブになることしかできない。でも店主のキャラクターや姿勢で、集まってくるものが変わり、買ってくれる人のタイプが変わってくるんですね。どんなコミュニケーションを誘発させられるか、それがハブの役割です。
 僕はサブカルチャーについて考え、発言していますが、お店をやるときは、いろいろな人が自分のまわりを行き交って、その人たちが僕を認識するときのカードの1枚としてサブカルチャーが入っている、というイメージです。表現するのは文章で書くので、店では行き交う人たちの中に立って“サブカルチャー”の看板も出している状態ですね。店をやるっていうことは、そういうことだと思っています」
 
 下田さんは新刊書店を辞めたとき、書店員以外の選択肢を考えなかった。「言われてみれば、鞍替えしようとはまったく思いませんでした。本屋の仕事しかできないっていうのもありますけど」と笑う。
 
「高校時代に学校の近くに古本屋がなかったら、ほんとうに引きこもっていたと思うので、その恩義があるというのもあります。外に出たときに、行く場所があると一息つけるし、いまはしんどくても、自分がまだ知らない世界があっておもしろいことがあるっていう入口を用意してくれていると、極端なことを言えば、とりあえず今日は自殺するのやめようって乗り越えられるかもしれない。本屋を好きな人って、そういうところがあると思うんですよ。
 あとまあ、本屋はおもしろいです、やっぱり。なんとかずっとこの仕事をやっていきたい。漫然とやっていても相手にされなくなりますし、そのときに自分が頼れるのは、自分自身をちゃんとおもしろがらせる、ということなんです。目標はインフラになること。洗練されたことは自分はできないかもしれないけど、お客さんにとってインフラとしておもしろいか、役に立つか、ということを考え続けて、コミュニケーションのなかで棚をつくっていきたいです」
 
 あちらこちらから集まってくる本や人が行き来する交差点に、下田さんは立っている。そこは交通整理されることなく、不確定だからこそ刺激的で活気にあふれ、あたたかい。
 

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む

第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
第4回 「良い本屋」ってなんだろう~日野剛広さんの話(3)~ ‎
第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜
第7回 時代が変わる、売り方も変わる〜海東正晴さんの話(2)〜
第8回 本とレコードに囲まれて〜海東正晴さんの話(3)〜
第9回 本屋さんの最終型とは〜海東正晴さんの話(4)〜
第10回 つくば科学万博のころ〜徳永直良さんの話(1)〜
第11回 四国で暮らしていたころ〜徳永直良さんの話(2)〜
題12回 つくばの本屋さんで、できること〜徳永直良さんの話(3)〜
第13回 書店員ののちに始めた新しい仕事について〜徳永直良さんの話(4)〜
第14回 落ち穂拾いの日々〜徳永直良さんの話(5)〜
第15回 書店員として働きはじめたころ〜下田裕之さんの話(1
第16回 早春書店を立ち上げるまで〜下田裕之さんの話(2)
第17回 80年代のことしか考えていなかった〜下田裕之さんの話(3)
第18回 下田さん、サブカルってなんですか?〜下田裕之さんの話(4)


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第18回 下田さん、サブカルってなんですか?〜下田裕之さんの話(4)


 
 中学〜高校時代、80年代のことだけを考え続けてきた下田裕之さんは、2005年、法政大学に入学して哲学を専攻した。担当の先生はバタイユが専門だったが、下田さんが興味をもったのはジャン・ボードリヤールというフランスの哲学者だ。
 
「たとえば、やかんの使用価値は『湯をわかす』ところにあります。この社会に、やかんが30個しかなかったら、『湯をわかす』機能が重宝されるけど、ひとり1個持っていたら、この機能は特別じゃなくなるから、人びとにそれ以上消費を促すことができない。じゃあどうやって買わせるかというときに、若者に人気のデザイナーがつくったとか、メーカーブランドオリジナルのロゴをつけたりだとか、ノーブランドにはない記号的な付加価値をつけるようになる。ものの価値は、使用的価値から記号的価値に移行するということを指摘した人です。
 これは学問的な理屈だったんですけど、日本社会でこの差異化が現実になり始めたのが、80年代なんです。当時セゾングループ代表だった堤清二氏が『無印良品』を立ち上げたのは、ボードリヤールの理論の影響があるといわれています。ブランド隆盛の時流に逆らって、あえてブランドをはずした“無印”のレーベルをつくったんですね」
 
 大学生の下田さんは、ボードリヤールを勉強するのと並行して、評論家の大塚英志をはじめ、サブカルチャーの領域で活動する人のものを読むようになる。ただ80年代を考えるだけじゃなく、社会的なしくみのことまでを考えるトレーニングをしていった。その後も思考を続け、現在では批評ユニットTVODを結成、来月1月31日には『ポスト・サブカル焼け跡派』(百万年書房)という書籍を発売予定だ。
 そうやって80年代サブカルチャーを考え続けてきた下田さんに、聞いてみたいことがあった。サブカルとは何か、ということである。
 わたし個人としては、サブカルという言葉が便利遣いされすぎて、その意味するところが人によって違ってきているように感じている。本屋さんの棚の分類札に「サブカル」とあると、芸能、格闘技、漫画、画集……とジャンルもさまざまな上に、ほんのりアンダーグラウンド感が漂う本が並んでいることが多い。なんとなくはわかる。考えるよりは感じる分野というのが、わたしのサブカルに対する雑なイメージだ。サブカル求道者である下田さんなりの定義を聞いてみたいと思った。
 
「サブカルチャーというのは、元々は社会学者が使い始めた言葉なんです。欧米の社会学での使われ方は、ある社会でのメイン(統一者側)の文化ではないもの、たとえばイギリスにおいては、移民系のエスニックカルチャーのような、社会的マイノリティによる文化というニュアンスが強い言葉です。でも日本では、そういうニュアンスは抜いて使われていますね。
 日本では、60年代の対抗文化(カウンターカルチャー)が70年代に入って反体制的なニュアンスが消えていき、その思想性を抜いたものが資本側に吸収されて消費文化になった、というプロセスがあります。カウンター性が抜けた対抗文化が、サブカルチャーだと」
 
 カウンターカルチャーとは、社会の体制的なものに対して異議を唱えたり、抗議したりした文化をさす。アメリカだとヒッピーの人たちが開催したウッドストックでのフェス、日本だと学生運動などがわかりやすい。60年代後半に世界で同時多発的に起こった潮流だ。
 
「日本では、1972年のあさま山荘事件で新左翼に対しての希望がついえてしまったことで、カウンターカルチャーの終わりが可視化されてしまったと思います。ただそのあたりから『宝島』『POPEYE』などの雑誌が力をもってくる。『宝島』は海外のヒッピーカルチャーやカウンターカルチャーの影響からスタートしているんですけど、『POPEYE』のような雑誌が70年代を通してそういう海外文化をカタログ的に紹介していくようになります」
  
「サブ」というからには、「メイン」があるわけで、何がメインで何がサブなのか、その考え方で意味が変わってくる。
 
「このメインとサブを消費文化のレベルの中だけで考えてしまいがちなこと自体が、日本社会が政治性を意識しづらい環境であることの証明になっていると思うんです。消費文化内のメイン・サブだけでなく、たとえば最初に言ったような民族的な問題はどうなんだろう、というところまで考えたいので、本を読んだり集めたりしたいんです。自分の興味を消費文化レベルのサブカル趣味に留めておくのは、あんまりおもしろくないなって」
 
 さらに下田さんは、サブカルチャーはじつは産業構造の話でもある、と話す。
 
「アカデミズムとも違い、政治運動でもなく、かといって大衆的ポップカルチャーでもないという領域につくられた文化ーーたとえば『rockin'on』や『本の雑誌』といった雑誌は、自分たちでインディーズ的な組織をつくったところに共通性があります。どちらの雑誌も、元々はミニコミ的なところから始まり、70年代にプレサブカルチャーな存在だったものが80年代以降に花開く。80年代は、サブカルチャーの自主製作が活発になった時期でもあって、レコードをつくることがかなり自由にできるようになってきたし、自主製作レコードの流通会社が立ち上がったりしました。同人誌を売るコミケも隆盛を極めてきます。
 でもほんとうに個人で自主製作やネット販売ができるようになってしまったら、そうした小規模流通も存在感を失ってくるんですね。70年代に準備され、80年代に隆盛し、90年代以降にゆっくりと消えていく、サブカルチャーを取り巻くそういった流れがあったと思います。日本のサブカルチャーは、アマチュアによって切り開かれた流通経路で広がり、消費された文化でもあります。出版業界においても、そういう歴史があるんじゃないでしょうか」
 
 わたしが感じた、本屋さんにおけるサブカル棚の印象の由来は、ここにあるのだろう。書かれている内容ではなく、その文化の成り立ちの話なのだ。
 下田さんは、さらに広く、政治性の有無も射程に入れて、サブカルチャーを受け止めている。一方で、政治性を抜き去ったからこそ、大衆が受け入れやすく広まったという面も否めない。
 
「もちろんそうです。いってしまえば、思想性を抜いたロックみたいなものですからね。どこで売るにも、それほど不都合はない。80年代は情報メディア環境がすごく変化したので、いわゆる80年代フジテレビ的=「楽しくなければテレビじゃない!」みたいな狂騒のなかで、消費されていったんだと思います」
 
 下田さんのサブカル論は、1コマの授業を聞いたような充実と満足感があった。「みんなそれぞれの『自分が考えるサブカルチャー』というのがあるので、すごく揉めるんですよ……。事実上、今はもうサブカルなんて死語ですからね」。下田さんはそう言うけれど、わたしはさらに、人それぞれのサブカルチャーを聞いてみたくなった。否が応でも、人は自分が生きた時代とは無縁ではいられないのだ。

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む

第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
第4回 「良い本屋」ってなんだろう~日野剛広さんの話(3)~ ‎
第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜
第7回 時代が変わる、売り方も変わる〜海東正晴さんの話(2)〜
第8回 本とレコードに囲まれて〜海東正晴さんの話(3)〜
第9回 本屋さんの最終型とは〜海東正晴さんの話(4)〜
第10回 つくば科学万博のころ〜徳永直良さんの話(1)〜
第11回 四国で暮らしていたころ〜徳永直良さんの話(2)〜
題12回 つくばの本屋さんで、できること〜徳永直良さんの話(3)〜
第13回 書店員ののちに始めた新しい仕事について〜徳永直良さんの話(4)〜
第14回 落ち穂拾いの日々〜徳永直良さんの話(5)〜
第15回 書店員として働きはじめたころ〜下田裕之さんの話(1
第16回 早春書店を立ち上げるまで〜下田裕之さんの話(2)
第17回 80年代のことしか考えていなかった〜下田裕之さんの話(3)


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第17回 80年代のことしか考えていなかった〜下田裕之さんの話(3)


 
 下田裕之さんは、1984年、兵庫県伊丹市に生まれた。その1ヶ月後には東京の中目黒に引っ越し、4〜5歳くらいまで過ごす。その後、埼玉の浦和市(現・さいたま市)に移り、小・中・高校まで通った。下田さんにとって忘れがたく、のちの人生に大きな影響を与え続けているのが、80年代半ばから末期にかけて過ごした中目黒での記憶だ。
 
「中目黒や祐天寺あたりの風景にインパクトがあったことを覚えています。住んでいたのは社宅なんですが、そのまわりの風景の密度がものすごく濃かった。小学生以降を過ごした埼玉の浦和はいわゆるベッドタウンで、当時は商業施設があるわけでもなく、“郊外”という感じの住宅地で、その何もなさが子どもごころにはけっこうショックでした。それで、幼少期を過ごした東京の雑然とした、情報量が多い感じを恋しく思うようになったんだと思います。
 当時は、そうした思いを言語化できなかったんですけど、成長するにつれて80年代がすごく遠くに感じてきました。思春期に入るくらいの12〜3歳のときは、まだインターネットも普及していなくて、過去の情報や動画を簡単に見られる状況になかったこともあって、80年代の音楽や本に対して距離感とかノスタルジーが交じった感覚をもつようになってきたんです。そうした漠然とした自分のノスタルジーを掘り起こしたいというのが、古本屋やカルチャーに興味をもつきっかけになりました」
 
 下田さんにとっては、東京で過ごした数年の幼少期がかなり濃密で刺激的な時期だったのだろう。その後、郊外に引っ越して風景や環境が変わったこともあって、より一層、記憶が濃縮されたのかもしれない。以降、寝ても覚めても80年代のことを考えるようになる。
 
「中学、高校と古本屋に通うようになってからは、80年代の雑誌に載っている当時の風景の写真を見るのがすごく楽しくて。当然、まわりの同世代とはまったく話が合わないし、親からは不気味がられていました。当時は80年代なんて、つい10年ほど前だから懐かしがるほどのことでもないですからね。
 北浦和にディスクユニオンがあって、思春期のころは通い詰めました。金もないのでそんなには買えないですけど、レコードやCDを見て、逆に言ったらそういうのに必死にならないと、中目黒あたりを歩いたら文化的なものがいろいろあるのに、自分が住んでいる場所はそんな状況じゃない……という落差が苦しくて。80年代といえば東京、というように自分の中ではなっていきました。そういう少年期でした」
 
 中学生のころは、リアルタイムの音楽を聴いていたこともあった。電気グルーヴやコーネリアスが名盤といわれるアルバムを出した時期だ。『A』(電気グルーヴ/1997年5月発売)、『ファンタズマ』(コーネリアス/1997年8月発売)の2枚を中学1年生のころに聴いたことが、ポップミュージックにハマるきかっけになった。
 
「電気グルーヴがすごく好きになって、メンバーがかつてやっていたバンドがあるらしいと本を読んで知り、その所属が80年代にできたナゴムレコードというインディーレーベルで、それを主宰していたのがケラさんで、そのケラさんがやっていた有頂天というバンドを聴いたら、80年代のテクノポップが好きになって……」
 
 結局、行き着く先は80年代の音楽になる。下田さんは80年代の魅惑に抗うことができない。沼である。
 
「さかのぼっていった感じですね。4〜5歳くらいまでの東京の記憶と、有頂天の音楽はすごくフィットしていて、あのころの感じがした。今でも、初めて部屋でCDをかけたときのことをよく覚えています。それから有頂天のことを調べたい、ケラさんが紹介している本を読んだり映画を観たり、当時の雑誌を探して神保町に通うことが始まりました」
 
 そんな経緯から、下田さんは「小説好きな人たちとは読書体験が違いすぎるんですよね…」と言うが、自宅には本がたくさんあり、とくに母親から受けた影響は少なくないという。
 
「母は音楽や映画、文学が好きな人で、ジョン・アーヴィングがいろいろあったり、唐十郎の戯曲や淀川長治の映画の本があったり、ロック好きなんで『ミュージックマガジン』のバックナンバーがずらっと並んでいたりしました。ロックと映画と英米文学ですね。
 本はよく買ってくれました。絵本は、佐々木マキとか長新太とか、なぜかちょっとストレンジなものを与えられて、のちの自分の好みにかなり作用しています。小学生のころは『エルマーの冒険』とか児童文学を読んでいたんですが、高学年のときに図書室で読んだ『合成怪物』(レイモンド・F・ジョーンズ)というSFは相当なインパクトでした。身体を失っても脳だけで生き続けるという話で、60年代の作品です。児童文学から英米文学にはいかなくて、どうしてもアングラなほうに興味がいく。中高生のころは、筒井康隆とか、60〜70年代の日本SF作品を文庫で読んだりしていました」
 
 加えて、下田さんにとって避けて通れなかったのは、ウルトラマンや仮面ライダーといった特撮作品だ。
 
「幼少期、80年代の特撮も観ていましたが、ちょうどレンタルビデオが普及してきた時期で、60〜70年代の作品がレンタルビデオ店に並ぶようになりました。それらの“60年代の画質”が好きで、ここでも時代がずれているんですけど。
 80年代のちゃんと整理された作品と違って、たとえば『仮面ライダー』の最初のころは怪奇ドラマの演出がとられているからけっこう不気味で、でもそれがすごく好きでした。『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』では、脚本家に沖縄出身の方(金城哲夫氏)がいたから、本島と沖縄の社会問題が物語に重なるような回があって、当時は意味はわからないけど刷り込みにはなりますよね」
 
 人間は、幼少期から現在までに吸収してきたものでできている。文字を読み、映像を観たときの体験や感情の記憶は、ほんとうに尊い。下田さんは、そうした記憶を貪欲に積み重ねていっている。出発点は中目黒かもしれないが、浦和も重要なファクターのように思える。
 
「もしかしたら、ずっと東京で暮らしていたら、ちがう方向にいったかもしれないです。東京で生まれ育って大人になった人たちにとっては、僕にとっての幼少期の記憶のような状況が当たり前の光景で、日常かもしれない。でも、こういってはなんですけど、落差があるところに引っ越してしまったので、あの濃密な記憶はなんだったのかってことを考え続けている。大人になってから、当時住んでいた中目黒のあたりに行ってみましたけど、好きな町だなあとは思いましたが、自分の居場所というわけでもない。どこへ行ってもしっくりくるところはない、という感覚はずっとあります」。

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む

第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
第4回 「良い本屋」ってなんだろう~日野剛広さんの話(3)~ ‎
第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜
第7回 時代が変わる、売り方も変わる〜海東正晴さんの話(2)〜
第8回 本とレコードに囲まれて〜海東正晴さんの話(3)〜
第9回 本屋さんの最終型とは〜海東正晴さんの話(4)〜
第10回 つくば科学万博のころ〜徳永直良さんの話(1)〜
第11回 四国で暮らしていたころ〜徳永直良さんの話(2)〜
題12回 つくばの本屋さんで、できること〜徳永直良さんの話(3)〜
第13回 書店員ののちに始めた新しい仕事について〜徳永直良さんの話(4)〜
第14回 落ち穂拾いの日々〜徳永直良さんの話(5)〜
第15回 書店員として働きはじめたころ〜下田裕之さんの話(1
第16回 早春書店を立ち上げるまで〜下田裕之さんの話(2)


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第16回 早春書店を立ち上げるまで〜下田裕之さんの話(2)


 
 下田裕之さんが、勤めていたジュンク堂書店を退社したのは2018年2月。2016年に店長となった立川店が最後の店となった。大書店を辞めて自分の店を持とうと思ったのは、「自分で選択できる領域」を求めてのことだ。
 
「2010年代に書店員として働いていた間、考え続けていたのは、ネットが普及してきたことで、90年代的なメガストアにインフラとしてどんな役割があるのか、ということです。サラリーマンの立場の書店員には、会社の中にあるいろいろな事情やしがらみと戦いながら、考えたりがんばったりしている人はすごくいっぱいいます。ある程度の権限を持っていないと、会社の中で自由に動くことは難しいですから、しんどいなと思っている書店員も多いはずです。
 僕自身は、大きな会社でたくさんの人の意見を聞いて回していくという能力がないと思っています。これはある意味、敗北宣言なんですけど、大きい会社を劇的に動かしていく力は自分にはない。それよりは、自分が言いたいことをアウトプットできる場所をつくったほうが他の人の役にも立つような気がしたんです」
 
 下田さんが、そう思い始めたのは2015年ごろからだ。
 安保法制(平和安全法制関連2法)が可決され(2016年施行)、この動きに対して、社会に目を向ける若い世代の集まりであるSEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)が出てきた。
 
「僕は80年代サブカルチャーがすごく好きで、その好きなことについて調べたり本を読んだりすることと、社会で働くのは別腹という感覚でした。会社で仕事をする“表”と、趣味の“裏”は別の領域。でも、この表と裏の二層構造でやっていくには土台がないとできないわけで、その土台である社会がだいぶおかしなことになっている、と気づき始めたんです。
 当時、インターネットで文章を書き始めてみたらリアクションをもらうことも増えて、自分が思っていることを趣味の領域に留めておくよりは、表に出したほうが他人の役に立つかもしれないという気がしてきました」
 
 そうこうしているうちにも、社会情勢はどんどんひどいことになっていく。自分にできることのなかで、もうすこし意志的に行動したり、何かを表明したりできるやり方はなんだろうと考えた結果、下田さんは小さい本屋さんの道を選んだ。
 
「大きな会社をどんどん動かし回していくような人間だったらよかったんですけど、自分にはできなかった。だからせめて、小さい場所をつくったときは自分の責任や判断で、ものを言おうと思っています」
 
 下田さんは自分の店を開く前、吉祥寺の「よみた屋」という古書店で働いた。お客さんとしては古書店になじみがあったが、働いたことはない。いきなり自分の店を立ち上げるには無理があった。
 
「『よみた屋』の澄田さんは『古本屋になろう!』(青弓社)という本を出していて、古本屋の開き方、経営、値の付け方、棚の作り方などが書いてあるんです。これを読んだら最低限、方法論が理解できる。まさに、僕が新刊書店で働いているときに、あったらいいなと思っていた書店仕事のメソッド化です」
 
 独立することを前提に入社させてもらい、社員として雇われた。本には技術論的なことはすべて書かれていたが、実際にできるかどうかは別の話だ。澄田さんがお客さんのところに買い取りに行くのを後ろからついていって、実地を体験した。
 
「僕自身は理解も知識もまだまだですが、いた期間の中でみっちり現場の仕事を教えてもらったという感じです。現場に行って、お客さんとコミュニケーションをとりながら、見るべきところを見て時間内に値付けをするというのは、実際にやらないとわからないです。
 これは僕の解釈ですが、古書の値付けは、自分の店に来るお客さんの顔ぶれとか、店でどんな本をどれくらいの期間残しておきたいのか、というのを関連付けて値段を決めていく。新刊書店でもそうでしたが、ある程度の体系が頭に入っていないと、いちいち調べていたら仕事が終わりません。古本の場合は調べても情報がなかなか出てこないことがあるから、経験が大事になってきます。澄田さんは、経験も積み重なっているし、市場での価格の知識など、参照点がすごくいっぱいあるんです。どんなボールがきてもぜんぶ打ち返すことができる」
 
 新刊書店では値段が決まっている本を売る。古書店では自分自身で値段をつける。
 下田さんのなかで、本を見る目が変わったりしたのだろうか。
 
「新刊書店では、理屈の上では、予算と権限があれば仕入れたい本が仕入れられるし、自分の意志を棚に反映させることができます。でも古書店は基本的に、他の人の本をいただいて並べるので、自意識なんて反映させられない。じゃあどこで変わってくるのかといえば、店主がどんな人と、どんなコミュニケーションをとるのか、だと思います。そのコミュニケーションの経過が、棚に反映される。
 本を売ろうとしている人の動機は、必ずしも単純ではなくて、グラデーションがかかっているんですね。相手が何を大事にしているか、何を求めているかをくみとって、期待に応じたレスポンスを返せないと、だんだん人は離れていく。仕入れや棚づくりについては、ここがいちばん違うところだと思います」
 
 コミュニケーションの経過が反映された棚は、日々変わっていく。ある日、奇跡の巡り合わせで最高の棚ができたとしても、それを保存することはできない。「ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず」。古書店の宿命ともいえる。
 
「自分が描いている構図をキープすることができない商売ではありますね。でもだからこそ、相互コミュニケーションを積み重ねて棚をつくっていくことで、社会に還元できる、社会のインフラとしておもしろい本屋さんができるんじゃないかと思っています。いろいろなやり方があるけど、いま自分が興味をもってやってみようと思ったことが、早春書店の形になっています。2015年以降、新しくインフラとしての本屋さんをやろうと考えた末の、ひとつの答えです」
  
 新刊書店の書店員時代の葛藤や、社会情勢の変化を経て、自分の責任と判断で立ち上げた早春書店は、下田さんの“今”でもあり、“これまで”でもある。

第15回 書店員として働きはじめたころ 〜下田裕之さんの話(1)〜


 
 2019年3月、東京都国分寺市に古本屋さんがオープンした。店名を早春書店という。店主の下田裕之さんはジュンク堂書店に10年勤めたのち、35歳で自分の店をもつことになった。これから始まるシリーズは、この下田さんの話だ。
 
 下田さんが大学を卒業してジュンク堂書店に就職し、書店員になったのは2008年。
 
「正直なところ、学生時代に自分の将来のことをきちんと考えていたわけではなかったです。音楽やったり、本読んだり、文章書いたり、そうしたことがすごく好きだったんですけど、大学を卒業したら仕事しなきゃいけない。でも専攻は哲学だったから、そんなに選択肢があるわけじゃなくて、かなり後ろ向きな気持ちで就職活動をしていました」
 
 文房具の会社など、数社をぽつぽつと受けたりしたなかで、大手新刊書店のチェーン店であるジュンク堂書店に応募、面接までたどりつく。
 
「ぜったい書店員になるぞっていう強い気持ちじゃなくて、募集していたから応募したという感じで……。でも、ジュンク堂の面接は、面接官とちゃんと会話のキャッチボールができた記憶があります。志望動機とかではなく、どんなことが好きなのかを聞かれて、80年代のサブカルチャーが好きなんですよって話をした気がします。うろ覚えですけど」
 
 面接が無事に通ると、入社前年の夏、インターンとして1ヶ月ほど働いた。それまで本屋さんでのバイト経験はなく、何もかもが初体験でうまくいかなかったが、とにかく一生懸命やった。ちゃんと真面目にやろうと思った。
 
「それまでずっとふわふわしていたんで、一人前になりたいって思いながら働いていました。社会的にちゃんとしたいって」
 
 2008年に正式に入社すると、池袋店に配属され、芸術書の担当になった。先輩の下について仕事を覚えるはずが、その先輩が退職、入社して数ヶ月でフロア長になる。さらにその直後には、新規開店する店舗に行って棚をつくる「新店作業」を割りふられる。怒濤の展開だ。右も左もわからないうちに、新しい仕事の渦に飲み込まれている。わけがわからない。
 
「新店作業というのは、どういう本を入れるか考え、注文をかけて、あとはひたすら事務処理と力仕事です。商品が期日までに入っているか確認しながら、みんなで一斉に検品したり。本が入荷したら箱を開けて棚に並べる、レジなどの備品を用意、といったことを並行して進めていきます。
 僕の入社がジュンク堂の出店ラッシュの時期とちょうど重なっていたので、多いときには2〜3ヶ月に1回はどこかに出張していました。最終的に20店舗以上関わったと思います。いろんな場所に行けておもしろかったですけど、ずっとひとつの店を守って本屋の仕事をするみたいな状況は、どうやら自分にはなさそうだぞと感じました」
 
 入社して、いきなりの激務である。
 下田さん自身が入社したばかりで書店員としての仕事のやり方が試行錯誤な上に、新店舗で奮闘する新人さんからの相談を受けることもあった。そのときに感じたのが、書店員の仕事のノウハウを、どうやって伝えていくかということだ。
 経験さえ積めば、誰でもできる仕事なのだろうか。
 
「個人的には、方法論を教えれば、どんな人でもできると思います。ただその方法論を組み立てることが、けっこう難しい。
 まず、実際に読んでいなくても頭の中にある程度、各ジャンルの体系的な知識が、どう枝葉で分かれているかを知ること。その最低限の地図がないと、いちいち調べていたら物理的に時間が間に合わない。次に、その地図を元に身体を動かす。首から上の知識と、首から下の丈夫な身体、両方がないといけないんですけど、これを教育して伝えていくのは、かなりたいへんです。でもこの教育方法を組み立てられたら、たぶん幸せになる人がいっぱいいると思うんですよね。
 根本的な本屋の仕事は、どこもそう変わらないので、この方法論の外側にそれぞれの会社や店のやり方をくっつけていくイメージです」
 
 下田さんには、日々一緒にいて担当ジャンルの知識を指導してくれる存在はいなかったが、お世話になった先輩はいた。
 
「僕は学生時代、古本にばかり興味が向いていて、最新の状況がどうなっているかをあまりおさえていなかったんですね。その先輩は、首から上も下もどっちも動く、処理能力が高い人で、新刊書店で最新の情報をおさえる術をもっていました。新刊書店員って、こういうことかって思いました」
 
 ジュンク堂書店は、「駅から1.5等地くらいの場所に位置して誰でもアクセスしやすく、蔵書量が図書館的にあって、行けばとりあえず一通りのことは調べることができる」ことをビジネスモデルとしているという。
 
「当時よく言われたのは、多面出しするなということでした。つまり、一冊の本を集中的に売るんじゃなくて、インフラになれっていうことなんだろうと僕は解釈したんですね。そこに行けば検索できて、来た人が自分に必要なものをピックアップできるような状態をつくる。世の中のことを勉強できる社会のインフラであるのが、本屋の良い側面なんだと」
 
 下田さんは、2016年に立川店の店長となる。ワンフロア1000坪という巨大な店だ。フェアやイベントの企画を立てたり、仕事の内容も自由度が高かったが、2年後の2018年に退社。自分の店をもつべく、準備にとりかかる。
 
「大きい店じゃなくて、小さい店がやりたい、という気持ちからではないです。結果的に小さい店になっているだけで、小さくあらねばと思っているわけじゃない。自分で選択できる領域をつくらないといけないというのがまずあって、僕の場合はこの選択だったという感じですね」
 
 2015年ごろから、下田さんは意志的に行動して、何かを表明するやり方を模索しはじめる。ものの考え方が変わるきっかけがあったのだ。

第14回 落ち穂拾いの日々〜徳永直良さんの話(5)〜


 
いま、徳永直良さんは、かなり頻繁にブックオフに通っている。買うのはもっぱら108円の文庫本だ。
 
「2016年2月に友朋堂が閉店して、7月から『ポリテクセンター茨城』に通うようになりました。その近くにブックオフが2軒あるんですね。平日ポリテクに行って、土日は休みで、その合間に履歴書を送ったり就職活動はするんですが、まあ比較的時間があるんです。それで行き始めて。当初は理工書や資格書、ビルメンテナンス関連の本を買っていたんですが、今は108円の文庫がほとんどです」
 
 ブックオフに通うようになったのは、書店員を辞めてからだという。
 
「ひとり暮らしのときは、入ってくるお金は本と食べものとパソコン関連に使っていました。自分が働いている本屋さんに払い戻しているようなものです。
 でも、2000年に結婚してからはそうもいかなくなって……そうなるのはたぶん自分だけじゃないと思いますけど。基本的には、子どもと一緒に図書館に行って自分も借りて読む、もしくはゲオでレンタルするようになりました。自分の仕事の目的が“本を買ってもらう”ことなのに、自分のライフスタイルは“本を買う”ことができなくなっているわけだから、すごい矛盾です。自分がやっていることは、自分の仕事の首を絞めてる。そういう自身への裏切りの気持ちがありました。書店員を辞めて、そのカセが外れたのかな、いまブックオフで本を買っているのは」
 
 徳永さんはブックオフで買った本を、ツイッターで「#購入本覚え」のハッシュタグを付けて、表紙の画像と書名・著者名・出版社名を投稿している。一度に20〜30冊、平均して3〜4日おきだ。買う本は、小説、SF、ミステリ、実用、ノンフィクション、エッセイなど、国内外、発行年の新旧問わず、とにかく幅広いジャンルを網羅している。この作家が好きなんだなとか、この分野に思い入れがあるんだな、といった憶測がまるで成り立たない。個人の蔵書というよりは、古本屋さんのようなラインナップだ。
 
「まあ、古本屋さんをやりたいから買っているというのがありますが……でもわかりません。小心者なんですよ。この買った本をどうするんだろって思いながら、先が見えないまま在庫が増えている感じ……です。インプットだけしてアウトプットはどうするのよって奥さんに言われています。商品にならないような状態が悪いものは買わないし、将来、副業になればいいなと思いながらやってはいるけど、踏み出せていないというか、怖がっているというか……」
  
 一方で、背中を押されたできごともあった。 
 2016年7月、閉店した友朋堂吾妻店の店内で一箱古本市が開催された。このときに徳永さんは出店し、1冊1冊におすすめポイントを書いた。このときからブックオフで文庫を集めていたので、とくに好きな妹尾河童さんの文庫本に力を入れ、全体では出品した8割ほどを売り上げたという。
 
「このときの売れた楽しさがなかったら、108円文庫を買うのを続けていないかもしれません。ちょっと夢をみちゃった状態が続いていて、とりあえず弾数(たまかず)を増やしておこうと」
 
 電子書籍ではなく、現物の本を集めていることにも理由がないわけではない。
 
「たとえば、解説は誰が書いているか、謝辞や出版の経緯といったことは、ネットではなかなかわからないですよね。電子書籍になったとき、帯はないし、あとがきは入っていても解説が入らないということもあります。紙の本がそのまま残るわけではないので、本としての総体みたいなものは電子化されていないんです。だから元本、現物があることには、やはり意味がある。その意味がお金になるかどうかはわからないけど、新刊書店で本を触ってきた者からすると、電子と現物は違う。それが集めている理由のひとつでもあります。
 単行本と文庫でも、単行本に値がつくのはわかりますが、文庫化された後のほうが、書き直しがあったり、解説が増えたり、文庫なりの良さがありますね」
 
 ブックオフで文庫を買っていることを、「落ち穂拾いをしている」と徳永さんは言う。
 
「このまま自分個人の在庫になって歳をとったときに読むのか、奥さんに怒られながらブックオフに売りに行くのか。自己満足で終わるかもしれないし、そうなるかもなと思いながら買っています。古本屋さんをやるのかやらないのか、やるならどんな形でやるのかは……ちょっといまとりあえず逃げてます」
 
 この取材は、2回に分けて違う日に、お話を聞いた。1回目に、鉄道に興味があるという話をすこししたら、2回目のときに徳永さんは本を1冊、持ってきてくれた。『線路工手の唄が聞えた』(橋本克彦・著/文春文庫)。
 線路工手とは、レールを安定させるために道床(枕木を支える砂利や砕石)の調整をする人のことで、4人一組での作業になるため、互いの呼吸を合わせる目的で唄があった。これを「道床つき固め音頭」といい、時代や土地柄によって、さまざまな節回しがあったという。日本に鉄道が開通した明治初期から昭和30年代ごろまでの話で、当時の社会情勢や路線事情などが詳細につづられていて、かなりマニアックで読み応えがあるノンフィクションだった。
 言うまでもないが、徳永さんの108円文庫コレクションの中の一冊である。初対面で数時間話しただけで、こんなに自分の興味ジャストの本を選んでくれた眼力にひれ伏すしかない。たとえ職業が変わっても、徳永さんはたぶん、死ぬまで書店員なのだ。
 

第13回 書店員ののちに始めた新しい仕事について〜徳永直良さんの話(4)〜


 
 2016年、勤めていた友朋堂書店が閉店し、徳永直良さんは次の職を探し始める。
「ポリテクセンター茨城」という雇用支援をする施設で半年間、職業訓練を受けて、翌年、第二種電気工事士という資格をとった。「一般住宅・店舗など600ボルト以下で受電する設備工事に従事できる資格」で、コンセント工事などに必要になってくる。
 なぜこの資格に目をつけたのか。
 
「2011年の東日本大震災で、電気の意味が変わったと思うんです。電気が通貨の役割を果たすようになった、と。
 2012年に車を買い換えることになって、電気自動車にしました。三菱の i-MiEVという軽自動車。価格は300万くらいするんですが、それまでガソリン代が月8000〜1万円かかっていたのが、月500円になるんです。いろいろプランを付けてもプラス2000円くらい。毎月6000〜8000円は浮くんですよ。
 2016年ころからは、街中に急速充電器スポットが増えてきて、充電するにも不自由がなくなってきました。車は電気で走り、街中で充電すると、V2H(Vehicle to Home:車両から家へ)といって家でも電気として使えるんです。HEMS(ホームエネルギーマネジメントシステム)というシステムがあって、うまくつなげれば洗濯機や冷蔵庫などの家電を動かすことができる。つまり、車が走る充電池になるわけです。
 もともとは、前に乗っていた車のエンジンが壊れたけど、車のことはまったく詳しくないから、どうしてダメになったのかもわからず、じゃあエンジンがない車にしようってことで i-MiEVを買ったんです。それで電気のことを考えるようになって、おもしろいって気づきました」
 
 徳永さんはいま、ビルメンテナンスの仕事に就いている。仕事内容は、各種設備がちゃんと動いているかどうかといった点検と記録が多いが、整備したり、配線するには、資格が必要になってくる。
 
「たとえば、ビル内の蛍光灯が点かなくなって、新しいものに換えても点かない。その場合は、蛍光灯の中に入っている安定器という別の回路を取り替えることになります。これはコンセントの中をいじるのと同じなので、電気工事士の資格がないとできないんです」
 
 ビルメンテナンスの仕事は、電気通信や空調、給排水などの設備を点検・管理したり、清掃、防火防災、警備など多岐にわたる。オフィスビルや駅ビルなどを毎日のように使っていて、トイレの水が流れ、空調が適宜効いていて、エレベーターやエスカレーターがちゃんと動いているのが当たり前のように感じているが、もちろんそれらは人が働いているから成り立っている。仕事内容が多種多様なだけに、「ビルメンテナンスの4点セット」と呼ばれる資格があるという。
 第二種電気工事士のほかに、二級ボイラー技士、危険物取扱者乙種4類、第三種冷凍機械責任者の4つだ。これらの資格がなくても働くことはできるが、取得しておいたほうが仕事の幅も広がるし、職にも就きやすい。
 徳永さんは、第二種電気工事士を取得したのち、働きながら他の資格に取り組み、二級ボイラーと危険物を取得、冷凍機もあと一科目を残すのみだ。加えて、2年の実務経験が必要だった一級ボイラー技士の免許も、最近取得できた。
 素人からすると、それぞれどんなときに必要な資格なのか、よくわからない。徳永さんの話を聞いて、空調設備をどうにかするための資格、のような気がする。
 
「そうです。この仕事に就いて初めて認識したのが『冷熱源』のことです。自分の家だとエアコン1台あればすむことなんですけど、大きなビルになると冷房にも暖房にも源が必要なんですね。『熱』はボイラー、つまりはやかんに水をいれて熱して蒸気を発生させるやつです。『冷』も、ある意味ボイラーなんですが、むかしはフロンを使っていて……このあたりちゃんと説明できないな……冷凍機の資格が取れていないだけに…」
 
 現在のビルメンテナンスの仕事の話を聞いていると、書店員のときとは、まったく別の頭の使い方をしているようにみえる。
 
「ビルメンテナンス自体がサービス業ではあるんですよ。直接の相手が個人のお客さんではないんですけど。自分は電気の知識とか、まだ全然全然足りていなくて、百のうちの一にもなっていない感じですが、ビルメンテをサービス業ととらえる人とそうではない人がいる気がします。団塊の世代がちょうど辞めていくときで、過渡期なんでしょうね。本屋さんも過渡期だけど、この業界も過渡期です」
 
 再就職のことを考えるとき、今の職種以外のことを考えることはなかったのだろうか。たとえば、書店員とか。
 
「うーん、いやいろいろ……というか、本屋さんにも行きましたよ。地元にある出版社とかも。でもたぶん年齢でダメだったんだろうと思います。ただ逆に言うと、転職した当時は53歳でしたが、そのタイミングでよかった。60まで働いて、もう仕事ないって言われても、どうにもならなかったなって。今の会社では正社員にしてもらえましたが、自分の後にポリテクセンターから40代が4人入ってきました。自分が後だったら50代は雇わなかったでしょう。タイミング的にぎりぎりでした。
 そう考えると、本屋さんって経営者はいいけれど店員は……何もないじゃないですか。たとえ店が運良く続いても、いまは運良く続くのさえ難しいわけですけど、60になったら終わる。書店員をやったことを後悔しているわけじゃないですが、いま、この仕事をやり始めて、20年若かったら将来的に違うものが見えてきたなって思うんです。自分はほんとに何も考えていなかったから言っておきたいんですけど、書店員プラスアルファはやっておいたほうがいいと思う。将来設計を考えてほしい」
 
 30年、書店員として働いたのちの情熱と冷静が同居していて、その葛藤が伝わってくる。書店員を辞めても人生は続くのだ。