第14回 落ち穂拾いの日々〜徳永直良さんの話(5)〜


 
いま、徳永直良さんは、かなり頻繁にブックオフに通っている。買うのはもっぱら108円の文庫本だ。
 
「2016年2月に友朋堂が閉店して、7月から『ポリテクセンター茨城』に通うようになりました。その近くにブックオフが2軒あるんですね。平日ポリテクに行って、土日は休みで、その合間に履歴書を送ったり就職活動はするんですが、まあ比較的時間があるんです。それで行き始めて。当初は理工書や資格書、ビルメンテナンス関連の本を買っていたんですが、今は108円の文庫がほとんどです」
 
 ブックオフに通うようになったのは、書店員を辞めてからだという。
 
「ひとり暮らしのときは、入ってくるお金は本と食べものとパソコン関連に使っていました。自分が働いている本屋さんに払い戻しているようなものです。
 でも、2000年に結婚してからはそうもいかなくなって……そうなるのはたぶん自分だけじゃないと思いますけど。基本的には、子どもと一緒に図書館に行って自分も借りて読む、もしくはゲオでレンタルするようになりました。自分の仕事の目的が“本を買ってもらう”ことなのに、自分のライフスタイルは“本を買う”ことができなくなっているわけだから、すごい矛盾です。自分がやっていることは、自分の仕事の首を絞めてる。そういう自身への裏切りの気持ちがありました。書店員を辞めて、そのカセが外れたのかな、いまブックオフで本を買っているのは」
 
 徳永さんはブックオフで買った本を、ツイッターで「#購入本覚え」のハッシュタグを付けて、表紙の画像と書名・著者名・出版社名を投稿している。一度に20〜30冊、平均して3〜4日おきだ。買う本は、小説、SF、ミステリ、実用、ノンフィクション、エッセイなど、国内外、発行年の新旧問わず、とにかく幅広いジャンルを網羅している。この作家が好きなんだなとか、この分野に思い入れがあるんだな、といった憶測がまるで成り立たない。個人の蔵書というよりは、古本屋さんのようなラインナップだ。
 
「まあ、古本屋さんをやりたいから買っているというのがありますが……でもわかりません。小心者なんですよ。この買った本をどうするんだろって思いながら、先が見えないまま在庫が増えている感じ……です。インプットだけしてアウトプットはどうするのよって奥さんに言われています。商品にならないような状態が悪いものは買わないし、将来、副業になればいいなと思いながらやってはいるけど、踏み出せていないというか、怖がっているというか……」
  
 一方で、背中を押されたできごともあった。 
 2016年7月、閉店した友朋堂吾妻店の店内で一箱古本市が開催された。このときに徳永さんは出店し、1冊1冊におすすめポイントを書いた。このときからブックオフで文庫を集めていたので、とくに好きな妹尾河童さんの文庫本に力を入れ、全体では出品した8割ほどを売り上げたという。
 
「このときの売れた楽しさがなかったら、108円文庫を買うのを続けていないかもしれません。ちょっと夢をみちゃった状態が続いていて、とりあえず弾数(たまかず)を増やしておこうと」
 
 電子書籍ではなく、現物の本を集めていることにも理由がないわけではない。
 
「たとえば、解説は誰が書いているか、謝辞や出版の経緯といったことは、ネットではなかなかわからないですよね。電子書籍になったとき、帯はないし、あとがきは入っていても解説が入らないということもあります。紙の本がそのまま残るわけではないので、本としての総体みたいなものは電子化されていないんです。だから元本、現物があることには、やはり意味がある。その意味がお金になるかどうかはわからないけど、新刊書店で本を触ってきた者からすると、電子と現物は違う。それが集めている理由のひとつでもあります。
 単行本と文庫でも、単行本に値がつくのはわかりますが、文庫化された後のほうが、書き直しがあったり、解説が増えたり、文庫なりの良さがありますね」
 
 ブックオフで文庫を買っていることを、「落ち穂拾いをしている」と徳永さんは言う。
 
「このまま自分個人の在庫になって歳をとったときに読むのか、奥さんに怒られながらブックオフに売りに行くのか。自己満足で終わるかもしれないし、そうなるかもなと思いながら買っています。古本屋さんをやるのかやらないのか、やるならどんな形でやるのかは……ちょっといまとりあえず逃げてます」
 
 この取材は、2回に分けて違う日に、お話を聞いた。1回目に、鉄道に興味があるという話をすこししたら、2回目のときに徳永さんは本を1冊、持ってきてくれた。『線路工手の唄が聞えた』(橋本克彦・著/文春文庫)。
 線路工手とは、レールを安定させるために道床(枕木を支える砂利や砕石)の調整をする人のことで、4人一組での作業になるため、互いの呼吸を合わせる目的で唄があった。これを「道床つき固め音頭」といい、時代や土地柄によって、さまざまな節回しがあったという。日本に鉄道が開通した明治初期から昭和30年代ごろまでの話で、当時の社会情勢や路線事情などが詳細につづられていて、かなりマニアックで読み応えがあるノンフィクションだった。
 言うまでもないが、徳永さんの108円文庫コレクションの中の一冊である。初対面で数時間話しただけで、こんなに自分の興味ジャストの本を選んでくれた眼力にひれ伏すしかない。たとえ職業が変わっても、徳永さんはたぶん、死ぬまで書店員なのだ。
 

第13回 書店員ののちに始めた新しい仕事について〜徳永直良さんの話(4)〜


 
 2016年、勤めていた友朋堂書店が閉店し、徳永直良さんは次の職を探し始める。
「ポリテクセンター茨城」という雇用支援をする施設で半年間、職業訓練を受けて、翌年、第二種電気工事士という資格をとった。「一般住宅・店舗など600ボルト以下で受電する設備工事に従事できる資格」で、コンセント工事などに必要になってくる。
 なぜこの資格に目をつけたのか。
 
「2011年の東日本大震災で、電気の意味が変わったと思うんです。電気が通貨の役割を果たすようになった、と。
 2012年に車を買い換えることになって、電気自動車にしました。三菱の i-MiEVという軽自動車。価格は300万くらいするんですが、それまでガソリン代が月8000〜1万円かかっていたのが、月500円になるんです。いろいろプランを付けてもプラス2000円くらい。毎月6000〜8000円は浮くんですよ。
 2016年ころからは、街中に急速充電器スポットが増えてきて、充電するにも不自由がなくなってきました。車は電気で走り、街中で充電すると、V2H(Vehicle to Home:車両から家へ)といって家でも電気として使えるんです。HEMS(ホームエネルギーマネジメントシステム)というシステムがあって、うまくつなげれば洗濯機や冷蔵庫などの家電を動かすことができる。つまり、車が走る充電池になるわけです。
 もともとは、前に乗っていた車のエンジンが壊れたけど、車のことはまったく詳しくないから、どうしてダメになったのかもわからず、じゃあエンジンがない車にしようってことで i-MiEVを買ったんです。それで電気のことを考えるようになって、おもしろいって気づきました」
 
 徳永さんはいま、ビルメンテナンスの仕事に就いている。仕事内容は、各種設備がちゃんと動いているかどうかといった点検と記録が多いが、整備したり、配線するには、資格が必要になってくる。
 
「たとえば、ビル内の蛍光灯が点かなくなって、新しいものに換えても点かない。その場合は、蛍光灯の中に入っている安定器という別の回路を取り替えることになります。これはコンセントの中をいじるのと同じなので、電気工事士の資格がないとできないんです」
 
 ビルメンテナンスの仕事は、電気通信や空調、給排水などの設備を点検・管理したり、清掃、防火防災、警備など多岐にわたる。オフィスビルや駅ビルなどを毎日のように使っていて、トイレの水が流れ、空調が適宜効いていて、エレベーターやエスカレーターがちゃんと動いているのが当たり前のように感じているが、もちろんそれらは人が働いているから成り立っている。仕事内容が多種多様なだけに、「ビルメンテナンスの4点セット」と呼ばれる資格があるという。
 第二種電気工事士のほかに、二級ボイラー技士、危険物取扱者乙種4類、第三種冷凍機械責任者の4つだ。これらの資格がなくても働くことはできるが、取得しておいたほうが仕事の幅も広がるし、職にも就きやすい。
 徳永さんは、第二種電気工事士を取得したのち、働きながら他の資格に取り組み、二級ボイラーと危険物を取得、冷凍機もあと一科目を残すのみだ。加えて、2年の実務経験が必要だった一級ボイラー技士の免許も、最近取得できた。
 素人からすると、それぞれどんなときに必要な資格なのか、よくわからない。徳永さんの話を聞いて、空調設備をどうにかするための資格、のような気がする。
 
「そうです。この仕事に就いて初めて認識したのが『冷熱源』のことです。自分の家だとエアコン1台あればすむことなんですけど、大きなビルになると冷房にも暖房にも源が必要なんですね。『熱』はボイラー、つまりはやかんに水をいれて熱して蒸気を発生させるやつです。『冷』も、ある意味ボイラーなんですが、むかしはフロンを使っていて……このあたりちゃんと説明できないな……冷凍機の資格が取れていないだけに…」
 
 現在のビルメンテナンスの仕事の話を聞いていると、書店員のときとは、まったく別の頭の使い方をしているようにみえる。
 
「ビルメンテナンス自体がサービス業ではあるんですよ。直接の相手が個人のお客さんではないんですけど。自分は電気の知識とか、まだ全然全然足りていなくて、百のうちの一にもなっていない感じですが、ビルメンテをサービス業ととらえる人とそうではない人がいる気がします。団塊の世代がちょうど辞めていくときで、過渡期なんでしょうね。本屋さんも過渡期だけど、この業界も過渡期です」
 
 再就職のことを考えるとき、今の職種以外のことを考えることはなかったのだろうか。たとえば、書店員とか。
 
「うーん、いやいろいろ……というか、本屋さんにも行きましたよ。地元にある出版社とかも。でもたぶん年齢でダメだったんだろうと思います。ただ逆に言うと、転職した当時は53歳でしたが、そのタイミングでよかった。60まで働いて、もう仕事ないって言われても、どうにもならなかったなって。今の会社では正社員にしてもらえましたが、自分の後にポリテクセンターから40代が4人入ってきました。自分が後だったら50代は雇わなかったでしょう。タイミング的にぎりぎりでした。
 そう考えると、本屋さんって経営者はいいけれど店員は……何もないじゃないですか。たとえ店が運良く続いても、いまは運良く続くのさえ難しいわけですけど、60になったら終わる。書店員をやったことを後悔しているわけじゃないですが、いま、この仕事をやり始めて、20年若かったら将来的に違うものが見えてきたなって思うんです。自分はほんとに何も考えていなかったから言っておきたいんですけど、書店員プラスアルファはやっておいたほうがいいと思う。将来設計を考えてほしい」
 
 30年、書店員として働いたのちの情熱と冷静が同居していて、その葛藤が伝わってくる。書店員を辞めても人生は続くのだ。

第12回 つくばの本屋さんで、できること〜徳永直良さんの話(3)〜


 
 今回の取材時、徳永直良さんに会う前に、わたしは友朋堂書店の吾妻店に立ち寄ってみた。つくば駅から、エキスポセンター内にある実物大モデルのH2ロケットを見ながら歩く。
 区画整理された住宅地を抜けると、「本」というネオンサインのポールが立っている。すごく高いポールだ。平屋建ての店のガラスドアには「小さな手袋の忘れものをお預かりしています」とイラストを添えた紙が貼ってあり(2月だった)、書店員さんたちの温かみが伝わってきた。
 中に入ると、まず雑誌コーナーがあり、郷土出版物や岩波文庫が棚に並んでいる。空いている棚も少なくないなかで、筑波書林のふるさと文庫シリーズは充実していて、定価の半額とある。『筑波研究学園都市ー頭脳都市の周辺学ー』『いばらきの銘酒地図』の2冊を買って、店を出た。
 
 徳永さんは、この吾妻店でアルバイトとして働きはじめ、1989年に社員になった。大学時代、数多くの仕事を経験した上で、本に関わる仕事がしたいと思ったという。
 
「友朋堂でアルバイトを始めたときは、大学は辞めていました。バイト時代は返品伝票を書くのが主な仕事でしたね。社員になったら、まずは雑誌です。店の入口のところで、その日入ってきた雑誌の束を解いて棚に並べる。次に書籍の新刊。雑誌は鮮度が高いものなので、まず雑誌棚をつくるのが友朋堂的な流れでした。10時開店なのに、みんな出勤してくるのが9時半だから、荷を開けて並べるのがいつも間に合わないんです。開店時にすでに棚に並んでいる店を見て、すごいなあって思っていました。
 社員になった当時は、本はよく売れました。週末、雑誌やコミックの棚のところで立ち読みする人が多くて、身動きがとれないからどうにかしてって言われたこともありました。駐車場も広くて100台以上、停められましたしね」
 
 2010年ごろから、徳永さんは独自の方法で、お客さんとやりとりしていた。ツイッターの個人アカウントで、お客さんからの要望を受け付け、友朋堂に在庫があるかどうか調べたり、本を探したり、注文を受け付けたりしていたのだ。
 
「90年代にやっていたパソコン通信のようなことができないかな、と思ったんです。ツイッターは2009年からやっていて、店アカウントではなく、個人のアカウントで友朋堂の徳永と名乗って、DMや返信でいろいろな要望や注文を受け付けていました。配達はしていないので、店に直接来る人に向けてです。買うかどうかわからないけど入れて欲しいというものに、入荷して○○の棚にあるので見てください、と返信したり。サザエさんの三河屋さんみたいな御用聞きを目指していたんです」
 
 お客さんからの要望で、店内にない本を注文するときには、お客さんの名前と連絡先を伝票に書くのだが、ツイッターだと本名を知らないことも多く、「@○○」といったアカウント名で書くこともあった。御用聞きという密なやりとりをしつつも本名を知らないという絶妙な距離感である。
 この元には、パソコン通信やBBS(電子掲示板)の経験がある。通信ネットワーク上の人たちとのやりとりに慣れがあったし、オフ会で実際に会って話した体験があったから、ツイッターでの交流も、すんなり始めることができた。
 
「何人くらいとやりとりしたのかは、わからないんですが、評判はよかったです。欲しいと思っている人に本を届ける。基本的には、書店員ができることはそういうことだと思います。新宿などの大きな街にある本屋さんとは違って、友朋堂には地面がつながっている範囲の人が来るわけですから、つくばという土地で、来てくれた人に対して何ができるのか、を考えていけば、どんな本に需要があるのか見えてきます。
 ツイッターをやっていない年配のお客さんから相談を受けて、自分ではわからなかったのでツイートして聞いてみたら、しばらくして知らない人から返事がきたことがありました。ネット上にテキストベースで残しておけば、いつか検索でひっかかることがあるかもしれないんですね。思いついたら発信しておくと、今の時代は何かにつながることがあるんだと思います」
 
 愛媛の実家から出てきて、つくばに住んだこと、大学でコンピューターに慣れ親しんだこと、そうしたことすべてが書店員としての素地になっている。本屋さんで働くことは、徳永さんのなかで無理も矛盾もなく、とてもスムーズな流れに感じた。当の本人も、とくに気負うところもなく「書店員は自分の天職だと思う」と言う。
 
「店でいろいろやってみて何かしらの成果が出ると、満足感がありました。でも自己満足的なところもあったと思います。
 たとえばシャーロック・ホームズって、謎解きを楽しんでいるスタンスですよね。変人で、人を人とも思わぬところがある。自分にもこれと近いものがある気がするんです。相手が何か探している、検索してみた、あった! となったときに、その経過にばかり集中して、人の顔を見ていないんじゃないかって。客商売が嫌いなわけじゃないんですけど、本を売るのが好き、というよりは、本に囲まれているところが好きなのかもしれないです。でも、ツイッターでのやりとりも成果はあったし……続けたかったですね」
 
 友朋堂を辞めようと思ったこと、ありますか? と聞き終わらないうちに、徳永さんは「ないです」と断言した。あまりに即答で、こちらが面食らったほどだ。
 
「仕事辞めたいとか、書店員を辞めたいと思ったことはないです。出版社的な仕事とか、本に関わる他の分野もみておけばよかったなって思うことはありますけど。あ、友朋堂の社長とケンカしたときは辞めようと思ったかな。でもまあ都合の悪いことは忘れちゃうんです。記憶力があまりいいほうではないので」
 
 その確信に満ちた答えが羨ましかった。これが30年間、同じ店で書店員を務めた重さだと思った。

第11回 四国で暮らしていたころ〜徳永直良さんの話(2)〜


 
 徳永直良さんが生まれ育ったのは、愛媛県周桑郡小松町。現在の西条市だ。
 実家周辺の地図を、自ら持参した小さなノートに書きながら説明してくれる。
 
「最寄りは予讃線の伊予小松駅で、高松と松山をつなぐ国道11号線がこう走っていて、妙之谷川が南北に流れてます。南のほうには四国でいちばん高い石鎚山があって、ここには四国八十八箇所札所の横峰寺があります」
 
 ボールペンで、黒、赤、緑と色分けして書いていく。赤で書き込むのは、近所の本屋さんだ。
 
「地域には小学校がふたつ、中学校がひとつあって、実家は中学がないほうの地区でした。中学があるほうの地区に、個人経営の小さな本屋さんが二軒。二畳分くらいの平台があって、教科書も扱っている。駐車場もない。そんな本屋さんです」
 
 家には、小学館発行の『少年少女 世界の名作文学』全50巻のセットや、子ども向けの百科事典のシリーズがあって、よく読んでいた。そうした全集が「棚でいうと6段棚が2本分くらい」あったと徳永さんは話し、風景としての本棚が目に浮かぶと同時に、書店員ならではの描写に感じ入る。
 
「いちばんはじめに買った文庫は、星新一さんの『午後の恐竜』です。伊予小松駅の売店には本も売ってて、そこで買いました。このなかに、「エデン改造計画」というショートショートがあって、良いものはコマーシャルする必要はなくて、そうしないと売れないからコマーシャルするんだ、とあって、最近読み返すまでは忘れていたんです。でもいま、テレビのコマーシャルの仕組みについて同じようなことを自分の子どもに話しているんですね。この本を読んだことが、知らず知らずに身についていたんだなと思いました。斜に構えたものの見方みたいなものが」
 
 家からすこし離れた西条高校に進学し、自転車で30分くらいかけて通うようになると、遠くの本屋さんまで回るようになった。
 描く地図が広がり、荒木書店、新潮堂、セイワ書店と書店名が赤字で書き込まれていく。
 
「高校まではフィクションしか読みませんでしたね。とくに筒井康隆は、この人の本にハズレはないと思いながら、ずいぶん読みました。あとは平井和正の『幻魔大戦』。ある意味カルト的なお話なので、青春のコンプレックスを持ち上げてくれるような気がしました。海外のものも読みましたが、影響を受けたのは日本のSFです」
 
 徳永さんの実家は、商売を営んでいた。
「店はいまのコンビニのようなもので、大きい冷蔵庫にジュースがあったり、乾物があったり。母が店番です。親父は野菜の仲買もやっていました。朝早くトラックで市場に行き、仕入れたものを他の市場やスーパーに持っていって昼ごろには帰ってくる。
 記憶に残っているのは、奈良漬け用の床をつくっていたことです。酒屋さんから仕入れた酒粕を、倉庫内に掘り下げたコンクリート製のタンクに入れて封をして、冬から夏にかけて発酵させるんです。それが奈良漬け用の酒粕になる。これを売っていました。瓜を漬けたりするんですね。2〜3メートルくらいの深さがあるタンクが5つか6つあったので、けっこう大がかりでした」
 
 徳永さんが10歳になるころには商売もうまく回りはじめた。その後、店は閉じたものの仲買の仕事を続けていたお父さんは、徳永さんが23歳のときに50歳で亡くなる。お母さんは、40歳のころから書道教室を開いていて81歳を迎えるいまも現役の師範だ。
 
「2004年に、近くの妙之谷川が大雨のときに増水して、流れてきた木や土砂が橋のところに詰まって周辺が水浸しになったんです。実家も一階は泥だらけになり、母は二階に上がって、ことなきを得たんですが、住めない状態になりました。いまは同じ家をリフォームして母がひとりで住んでいます。商売をやっていたあたりを書道教室にして、週に何回か生徒さんに教えている。何年か前には日展にも入選したんです」
 
 徳永家に文学全集や百科事典を揃えてくれたのは、お母さんだったという。お母さんは『赤毛のアン』が好きで、新潮文庫の村岡花子訳のものが何冊かあったのを、徳永さんは覚えている。
 こうした実家生活の話を聞いているうちに、大学入学時の「コンピュータに興味があってプログラムをつくりたいと思った気がする」という志望動機が、いつごろ芽生えたのかが気になってくる。
 
「中学の終わりごろに、雑誌で知ったことがきっかけでプログラム電卓を買ってもらったんです。これは関数機能で複雑な計算ができて、128ステップまでの計算手順を記憶できました。画面の7セグ表示も制御可能なので、インベーダーゲームのまねごとができたりするんです。これがけっこうおもしろかった。
 進学した西条高校には、電算機部というのがありました。電算機というのは、見た目や大きさは今のスーパーのレジと同じ感じで、出力がロール紙に印字されるところも似ています。これも簡単なプログラムが組めました。
 この部に入って、学園祭のときに相性占いをやったりしていました。先輩たちの書いたプログラムで、生年月日と名前を入れて、中で計算したふりをして、あなたと相手の相性は○%です、というのを印刷して渡す、というような。この占いでみんなが喜ぶことが楽しかったし、自分でも簡単なゲームを組んで思うように動いたときは嬉しかったですね。
 で、これにハマって、大学に入学したときに富士通FM-7というマイコン(今のパソコン)を親に買ってもらい、ゲームばかりやっていました。
 筑波大の情報学類の実習では、当時のマイコンと比べて、より大規模でパワーのある日立のメインフレームを使っていました。サイズも大きく高価なので、ひとり1台は使えず、多くのユーザーが同時にログインして、CPUやメモリ空間などを割り振って使う「タイムシェアリングシステム(TSS)方式」でしたね。
 情報学類以外の学生が使っていた計算機センターでは、三菱Multi16という16bitパソコンを使っていました。その端末を使って、誰が作ったプログラムかはわからないですが、当時のアニメ『超時空要塞マクロス』のヒロイン、リン・ミンメイを、幅広のプリンタ用紙にアスキーアートで打ち出すのが流行っていました。
 ゲームと、あと学生仲間との麻雀にもハマって…どちらにしても、大学時代は、あまり勉強しませんでしたってことになるんです……」
 
 そう話して、徳永さんはうなだれる。
 とはいえ、黎明期のころからパソコンに親しんでいたことは、のちのち陰に陽に影響してくる。90年代にはパソコン通信を始め、その経験が書店員の仕事やサービスに多くの示唆を与えたのだ。
 

第10回 つくば科学万博のころ〜徳永直良さんの話(1)〜


 
 茨城県つくば市に、友朋堂書店という本屋さんがある。
 1981年に吾妻店がオープンすると、当時、学園都市として街づくりが進みつつあったこともあって、1日で数百万を売り上げることもあるほど人がおしかけ本が売れた。棚に本を補充するのが追いつかないほどだったという。筑波研究学園都市として国の機関や研究施設、民間企業の研究所が移転してくれば、住む人も増えていく。80〜90年代には、大小の本屋さんが市内各地にできたものの、地域の書店としての地位は確かで、2000年には支店が3店舗あった。
 だが2016年2月、取次会社の太洋社の廃業にともなって閉店を余儀なくされる。突然の発表で衝撃は大きく、惜しむ声も多かったが、11日に吾妻店は店を閉じた。だが翌17年の夏ごろから再び店を開けるようになり、郷土出版物や、岩波書店の在庫などを販売している。
 
 これから始まるシリーズは、この友朋堂書店で30年近く書店員として働いた徳永直良さんの話だ。徳永さんが、故郷の愛媛県をあとにして筑波大学に入学したのは1983年。つくば科学万博を2年後に控えていたときである。
 
「当時、大学の周辺では土浦がいちばん大きな街で、駅舎が木造から建て替えられる時期でした。土浦から山を越えると、つくばなんですが、突如、公務員住宅のビルが現れて道幅が広がるんです。まわりは何もないのに、急に未来都市みたいになる。85年の万博に合わせて、その何もないところに西武百貨店ができて、映画館も入っていました。
 交通網としては、常磐線の土浦駅か荒川沖駅が最寄り駅で、そこからバス。万博の開催期間には、荒川沖のひとつ手前に万博中央駅(現・ひたち野うしく駅)という臨時駅ができて、そこから会場まで二連のバスが走っていました」
 
 筑波大学の開学は1973年、徳永さんが籍を置いた情報学類(第三学群)が設置されたのが1977年。あたらしい街の、あたらしい大学に入り、万博は目前。故郷から出てきて希望にあふれた一歩を踏み出した、と想像する。
 
「どうして筑波大学だったのかというのは……東京に近いとか、万博が見たかったとか……どうだろう、わからない…。情報学類に入ったのも、コンピュータに興味があってプログラムをつくりたいと思った気がするんですが、結局ちゃんと勉強しなかったんですよね。筑波大は6年以上はいられないので、5年次の3年生の時に中退しました」
 
 なんとなく、大学に入る前からちゃんと卒業しないような気がしていた、と徳永さんは話し、こちらの勝手な想像を吹き飛ばす。
 
「情報学類の課程は、数学も深いところまでやるし、物理学の実験もあるし、その実験は必ず違う結果になっちゃったりするし……。たとえば、ある二点間を、地図がなくても、ひらめきで行けてしまう人がいますよね。数学でも物理でも、自分にはそうしたひらめきがないんです。知識として知り道筋をつけていく、解き方を知ってから問題をあてはめて解いていく、というタイプ。計算も苦手だし、どちらかといえば文字情報のほうが好きです」
  
 大学では図書館がお気に入りで、ラテンアメリカ文学に傾倒した。現代企画室という出版社のシリーズが置いてあり、ガルシア・マルケスやフリオ・コルタサルなどを読んでいたという。それはもうむしろ文系……という思いをぐっと飲み込んで、これだけは役に立ったなって覚えていること、ありますか、と聞いてみる。
 
「『高々有限(たかだか ゆうげん)』という言葉があるんですね。数学で証明のときに使う言葉で、『せいぜい有限であって無限ではない(ので、数えられる、計算できる)』といった意味です。たしか。でもこの本来の意味じゃなくて、自分のなかでは『いつまでたっても終わりそうになくても、やり続ければいつかは終わる』という一種の処世術的な受け取り方をしていて、本屋さんの仕事をしているときにもよく思い出しました。毎日、本が山のように入荷してきて、どうやって棚に収めるんだって思うけど、分野ごとに整理していけばいつの間にか収まる、手を動かしていけば終わるって」
 
 いい話! と身を乗り出すと、「いやよくないです。本来の意味を曲げて受け取っているわけだから」と徳永さんは冷ややかだ。でも本質的には似ているように思う。数学的な厳密さをまったく持ちあわせていない人間の感想ではあるが。
  
 1985年3月に、つくば科学万博がスタートすると、徳永さんはアルバイトを始める。
 
「ゴールデンウィークにはTDK、7〜9月は東芝のパビリオンで人員整理をしました。半袖の開襟シャツの制服を着るんですけど、夏はとにかく暑くて日に焼けました。腕は真っ黒になるし、布地の厚さによって焼ける度合いも違うんです。時給は1000円で、当時としては高いですよね。街全体がお祭りで、浮かれた時代でした」
 
 その年の秋、徳永さんは1年、休学する。そして、志賀高原のスキー場のホテルで働き始めた。
 
「正月前から3か月間くらい、住み込みでレストランのウェイターをやっていました。友朋堂で求人情報誌を買って、店の前の公衆電話から応募の電話をしたんです。このバイトを選んだ理由はとくになくて、休学して時間があったから」
 
 そのほかにもアルバイトは数多く、かなりの働き者だった。
 
「今はもうないんですが、土浦の小さなホテルでフロントの夜勤をやりました。夕方に出勤して、布団を敷いたり、チェックインの受付。24時になったら締めて寝て、翌朝、朝食を出す、といった仕事です。そのホテルはメインが結婚式場で、客室は10部屋くらいだったんです。配膳の人に誘われて、式場の照明係をやったりもしました。
 あとは、牛久の電気店でエアコンの取り付けの手伝いとか、スーパーのイベントの手伝いで行ったら、声優ショーがあって杉山佳寿子さんのGu-Guガンモの声を生で聞けたりとか。筑波大の体育系研究室のつながりで、全日空のキャビンアテンダントさんが参加する体力測定のヘルプもやりました。……なんであんなにいろいろやったんだろう…当時はそうやって学業からどんどん離れていっていたんですね」
 
 最終的には中退することになるが、80年代、激動の街だったつくばで大学生活を送っていた活気が伝わってくる。徳永さんの生活は、その後も、つくばと深くつながっていくことになる。
 

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む

第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
第4回 「良い本屋」ってなんだろう~日野剛広さんの話(3)~ ‎
第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜
第7回 時代が変わる、売り方も変わる〜海東正晴さんの話(2)〜
第8回 本とレコードに囲まれて〜海東正晴さんの話(3)〜
第9回 本屋さんの最終型とは〜海東正晴さんの話(4)〜


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第9回 本屋さんの最終形とは〜海東正晴さんの話(4)〜


 
 蔵書家であり、書店員でもある海東さんでも、本を読むことから遠ざかった時期があった。
 
「自分が仕事にのめり込んでいるとき、『本を読む』より、『本をすすめる』ほうが楽しい時期がありました。ほんとうは両立しなくちゃいけないことだし、今なら読んでいない本をすすめてどうするんだと思うんですが。書店員をやっていると、目次やカバー、帯を見て、ぱらぱらとページをめくると中身がだいたいわかる力がついてくるんですね。これは僕だけでなく、多くの書店員がそうだと思います。
 そうした比較的浅いところの本の知識を元にしてポップをつくったりするのではなく、自分が最後まで読みこんだものを、ほんとうに良かったという気持ちをあらわしたすすめ方をしたい。最近はそう思っています」。
 
 本は、それがないと生きていけないというものではない。相当な読書家で活字中毒を自認する人は「本がなかったら生きていけない」と言うが、それは個人の嗜好であって、一般的には読書はあくまで娯楽である。だからこそ、書店員さんたちは日々奮闘している。生活必需品ではないけれど、本を買ってほしい。
 
「読書のいちばんの醍醐味は、自分が知らない世界を体験できることだと思うんです。その楽しさにすこしでも気づいてもらうために、どんなことができるのか、それを考えるのが僕たちの仕事ですね。本屋さんに来たお客さんは、何かしらのきっかけがあれば本を買っていただける人だと思っているので」。
 
 本に興味がなく、読む習慣もない人に対してのアプローチを考えていますか? と聞くと、「それは無理だと思います」と海東さんは断言した。「人口の半分は、ほとんど本を読まないと思っています。だからそこに力は使いません」。
 そのぶん、お店に来てくれたお客さんには全力でアプローチする。
 

  
 まず、平台に並ぶ本に付けられたポップの文字数が多い。小さな文字でびっしりと、いろいろな形の紙に書かれている。紙の色と、マジックの色が読みやすい組み合わせで、文字もとてもていねいだ。じっくり読みこんだ結果、ものすごくおもしろかったことが伝わってくる。
 文庫の棚の側面には、番号が書かれたカードフォルダがかかっている。「文庫との新しい出会い、いかがでしょうか?」とあり、思い浮かんだ番号のカードを取り出すと、裏に1冊の文庫本の書名と短い紹介文、置いてある棚の番号が書かれている。自分で選ぶのではない、偶然の出会いを演出するツールだ。いつもとは違うジャンルの本が読みたいときのきっかけになるだろう。
 文芸単行本の新刊棚は、書名の50音順に並んでいる。新刊を買いに来るお客さんが記憶しているのは書名なのではという考えからだ。既刊は作家順になっていて、在庫が複数冊ある場合は、新刊も既刊の棚にさす。ビジネス書の新刊はジャンル別に並べる。どうやったらお客さんが探しやすいのか、試行錯誤をかさねた結果、たどり着いた並べ方だ。
 2階には、知識の泉といった風情の小部屋がある。岩波文庫、講談社学術文庫、各社の新書シリーズが中央に、壁際には歴史、宗教と、みすず書房の本。
 

 
「あそこにあるのは、硬いイメージの本ですね。衝動買いの対象ではないと思うので、2階にも上がってほしいという期待もあります。かといって敷居を高くしているわけではなくて、若い人たちに向けて知識の深掘りができるようなラインナップを揃えていきたいんです」。
 
 1階のレジ横には、舞城王太郎、津村節子、宮下奈都、水上勉といった郷土の作家の棚がある。地元の出版物や、福井の文化や風土をあつかった本も並ぶ。
 
「置いてある本が地元のもの、というよりは、いかにも福井の本屋さんだなという雰囲気を大事にしたいと思っています。地元出身の作家さんは、もちろん特別扱いしたい。郷土棚はまだ完成していなくて、もっと濃厚なコーナーを目指しています」。
 
 勝木書店本店のむかいのビルには、全国チェーンの書店がテナントとして入っているのだが、やはりここは地元生まれの書店として郷土色を濃くしていきたいところだ。
 
 棚には、つくった書店員さんの思いが詰まっている。入荷してきた本を並べるのは人間で、何かしらの意図が反映されて、本はそこに並んでいる。本屋さんに来て、ただぼんやりと棚を眺めるだけでも心躍る体験だが、並べた人の意図に思いを馳せるとより刺激的だ。
 
 海東さんが目指しているのは、どんな本屋さんなのか。
 
「本を売るのが仕事なので、結果的に本が売れないとだめなんですが、なによりもこの仕事をやってて楽しいのは、おすすめした本を喜んでもらえたり、こちらが読んでおもしろかった本に対して似たような感情を抱いてもらうことなんですね。一方で、お客さんから揃えておいたほうがいい本とか、話題の本とかを教えてもらうことも多いです。
 店だけがひとり歩きするんじゃなくて、お客さんと情報をやりとりできる付き合いができるといいなと思っています。二の宮店で百科事典が売れていた頃ほど単純ではないことは、わかっているんですけど、やっぱりお客さんとの関係を深めていきたい。ポップがあまりに力作だったから買ってみたけど、おもしろかったよ。次のおすすめは何? とお客さんから聞かれたり、何かおすすめの本あったら仕入れてポップ書きますよ、とこちらからも提案したり。そうした関係が成り立つと思うんです」。
  

 
 この思いから、書店のお客さん、ひいては読者の人たちとの交流の場として、「福井駅前読書倶楽部」を昨年9月に発足させた。おもしろかった本を紹介しあったり、情報交換の場として続けていく予定だ。
 一方で、駅前再開発の問題は未だ不透明である。
 
「現在の建物は、かなり古くて老朽化がすすんでいますから、いずれ立て直さなくてはならないんです。問題は、次の新しい物件に入居できるかどうか。そのためには、相当な売上げがないと難しいでしょう。
 僕個人の思いとしては、福井駅前に地元の書店を残したい。近い将来、北陸新幹線が福井まで開通して県外からの観光客がいらっしゃるとして、降り立った駅前に福井らしさを体現する地元生まれの本屋がないというのは、文化都市とはいえないです」。
 
 本は、それがないと生きていけないというものではない。だが本がない生活は、草木も生えず乾ききった荒野である。できれば自分の故郷は、いつまでも実り豊かな肥沃な地であってほしい。

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過去の連載を読む

第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
第4回 「良い本屋」ってなんだろう~日野剛広さんの話(3)~ ‎
第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜
第7回 時代が変わる、売り方も変わる〜海東正晴さんの話(2)〜
第8回 本とレコードに囲まれて〜海東正晴さんの話(3)〜


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第8回 本とレコードに囲まれて〜海東正晴さんの話(3)〜


 
 
 海東さんはいま、歴史時代小説を多く読んでいる。
 
「とくに江戸時代が好きです。人びとが遊びを工夫していて、いろいろな文化が生まれた豊かな時代だったと思います。
 吉川弘文館から出ている『日本随筆大成』という全集があるんですね。江戸時代のさまざまな身分の人が書いた随筆を集めたものです。古本でしか手に入らないんですけど、昭和54年に完結している版が案外安く見つかって買ってしまったんです……四六判函入で103巻もあるんですが。
 これをたまに引っ張り出してぱらぱら読んでいると、当時の歴史や風俗が伝わってくるんです。案外、有名な学者が書いたものより、農民や、書き人知らずの巻のほうがおもしろい。当時は身分制度が厳しかったとされていますが、必ずしも身分が低い人が虐げられていたわけでもないんじゃないかと思い始めたのは、この本にふれてからです」。
 
 30代から40代前半くらいまでは、時間の使い方が下手で休みの日でも仕事をしたり、自分が読書をする時間がとれないことが多かった。2週間、本を開かずにいたこともあったが、いまは毎日開く。いちばん本を欲して読んでいるという。
  
 幼いころは、本を最後まで読むことがなかなかできなかった。
 
「あきっぽかったんですね。中学3年までで、最後まで読んだ本は3冊くらいしかありません。そのうちの1冊は『宿題ひきうけ株式会社』という児童書で、これはおもしろくて必死に読みました。小学校3年生くらいのときです。
 中学で星新一を知り、高校では筒井康隆。おもに短編を読んでいたんですが、大学に入って友人の影響で海外ミステリーを読み始めると、はまりました。大学の勉強そっちのけです。『ミステリマガジン』(早川書房)はこのころからずっと買っていて、大学は京都にあったんですが、当時「京都書院」という本屋さんがあって、そこにうずたかく積んであったのを覚えています。今ではうちの店に1冊か2冊入ってくるくらいですけど……」。
 
 海外ミステリーに限らず、自分の想像の翼を広げて知らない世界を知る喜びが読書の醍醐味、と海東さんは思っている。大学で海外ミステリーにふれて、小説も読むようになったが、40代に近づくとフィクションから遠ざかり、司馬遼太郎の『街道をゆく』などの歴史ものやノンフィクションに傾向がうつってくる。
 
「40代のころは、フィクションはそれほど自分の役に立たないと思っていたんです。ああ楽しかった、で終わっちゃうんじゃないかって。でも最近は、心を動かされて、涙を流したりするのはすごく貴重な体験だと気づきました。親が死んだときでも泣けなかったのに、小説を読んで涙をぽろぽろ流す自分を発見して、ちょっとびっくりして。フィクションの世界の力は自分をリセットする力があります。
 50代になって両方読むようになりました。ノンフィクションは知識興味の対象で、どんどん深く掘り下げて専門書もたどっていく。小説の場合は資料片手に読むこともなく、リラックスしてその世界に没入していく。ときには夢にまでみるくらいに。その両方が読書の醍醐味としてあるんだなあと思います。年齢とともに本の受け取り方や感想は、どんどん変わっていきますよね。いまは何を読んでもおもしろいです」。
 
 海東さんの話を聞いていると、相当な蔵書家である様子が伝わってくる。『日本随筆大成』が103巻、『ミステリマガジン』が約40年分、そしてこのごろ『ブリタニカ百科事典』をネットオークションで1円で買ったという話題もあった。そうした「全集もの」以外にも、さまざまな本が群れをなしているはずだ。どのように収納しているのか、そしてご家族の目は冷たくないのか。
 
「1階のリビングと、自分の書斎はもういっぱいで、嫁さんの部屋にも置いて、天袋とか押し入れにも入れて……怒られてますよ、床が抜けるって。抜けないようにバランスよく配置していますけど」。
 
 そのバランスに安心してはいけない気もするが、さらにいえばコレクションは本だけではない。レコードもある。クラシック音楽、洋楽、邦楽、落語のレコード(志ん生全集!)などもあって、その数ざっと3000〜4000枚。作曲家別に並べているという。
 
「好きなのはベートーヴェンです。交響曲よりは、室内管弦楽のほうが好きですね。意外とオーケストラ専用の楽曲はそんなに多くなくて、チェロとピアノのための二重奏曲とか、そうした小規模管弦楽が多いんです。
 でもいちばんのヘビーローテーションは、『ツィゴイネルワイゼン』(サラサーテ作曲)。気分がのらないときに聴くと、よけいに落ち込んでくるんですが、不思議とそのあとすっきりします。この曲だけでも何枚もあって、演奏家によってだいぶ違うんですよね。それもまた楽しんでいます」。
 
 余談ではあるが、この原稿は『ツィゴイネルワイゼン』を延々とリピートしながら書いた。すらすら、とまではいかないが、背筋が伸びて、比較的集中して取り組むことができたように思う。

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第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
第4回 「良い本屋」ってなんだろう~日野剛広さんの話(3)~ ‎
第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜
第7回 時代が変わる、売り方も変わる〜海東正晴さんの話(2)〜


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第7回 時代が変わる、売り方も変わる 〜海東正晴さんの話(2)


 
 
 人と人とのつながりで本が売れていた80年代を過ぎ90年代に入っても、売上げが目に見えて落ちるということはなかった。書店にとって福井はありがたい県なんです、と海東さんは話す。
 
「小・中・高校では、朝礼の前に15分〜30分、本を読む時間があるんです。『朝の読書』(あさどく)といって、基本的には何の本を読んでもいいんですが、課題図書もあって書店で売られていたり、書店が学校に納品したりしています。全国的にやっているみたいですけど、福井県はけっこうさかんですね。幼いころから本を読む習慣が身につきますし、そのおかげで読書の土壌がつくられているのかもしれません」
 
 調べてみると「朝の読書」は1988年に千葉県の高校で始まった取り組みで、そののち全国に広まっていったようだ。「朝の読書推進協議会」の調べでは、福井県の小中高での実施率は91%とあり(2019年1月調査)、全国トップの数字だ(全国平均は76%)。
 海東さんの話を聞いて初めて知った取り組みで、自分には経験がないが、子どものころに、毎日決まった時間に本を読む(たとえ「本を手にとる」だけであったとしても)時間をつくることは、大事なことと思う。少なくとも、読書に対して身構えることはなくなるような気がする。そうした土壌が、勝木書店や福井の他の書店を支えているのかもしれない。
 
 海東さんが二の宮店で働いていた時期は、ほぼ90年代、自身が30代のときだった。何もしなくても百科事典のような高額商品が売れていた時期を経て、店内の売場づくりに力を注ぐようになる。
 
「かつて、東京の池袋・西武百貨店の上に西武ブックセンターという書店がありました。のちのリブロの前身です。そこの本の並べ方は、売れている本をうずたかく積んでいたんですね。これはカルチャーショックでした。売れる本は、これだけ大量に積んであっても売り切ることができるんだなって。図書館とは明らかに違う光景だし、大きなポップや看板も置いてある。自分の店との落差をなんとかしたいと思いました。
 そこで、二の宮店の平台に真似をして積みました。倒れるかというくらい大量に。福井の人たちにとっても珍しかったのか、それらの本は売れたんですよね。講談社のブルーバックスシリーズの元素図鑑は、新刊ではなかったですが300冊くらい売りました。いちばん売れたのは、『磯野家の謎』(92年・飛鳥新社)です。うちの店舗だけで700冊を一度に仕入れようとして版元に驚かれ、でも入れてくれて、最終的には1200冊くらいを売りました。
 このときは、たくさん積むことが仕掛けだったんですよね。僕の流儀ではなくて、東京の流儀を取り入れただけですけど」
 
 二の宮店では、何か仕掛けをすればすぐに結果が出た。本店に勝ちたい一心で、売れるであろう本を探し、小さな出版社にも目を配り、一生懸命だった。だが一方で、自分の職業に疑問を感じる時期もあった。同じ年代が年収一千万円を超えたと聞けば、やはり心穏やかではない。30代のころは、お金をたくさん稼ぐ人がえらいと思っていた部分があって、人を羨む気持ちが強かった。だが年を経て、書店員の仕事を続けてきた末にたどり着いた境地がある。
 
「あきらめもありますよ。仕事にとられる時間がすごく長いし、お金が稼げるわけでもない。でも、いろいろな人を相手にして、毎日あたらしい書物に触れるから好奇心は衰えない。本というひとつのジャンルで、これほどたくさん種類がある商品って、そうはないんじゃないかと思うんです。
 書店員は全国にたくさんいますけど、それぞれ勧める本は違うはずだし、勧め方も違う。そう考えただけで楽しいでしょう? 自分がおすすめした本が売れれば最高に幸せだけど、一方で、アメンボだけの図鑑とか、クラゲだけの図鑑とか、想像もつかない本をお客さんがレジに持ってこられると、そのすごく細分化された世界を知れて人生の新たな発見だなって思う。毎日毎日が違うことを実感できる仕事なんです」
 
 海東さんは30代の終わりに二の宮店を離れ、本部の本の仕入れを担当する部署に異動になった。商品や店の管理、人事といった仕事にくわえて、社員の相談相手になったりもした。その後、金沢の支店にいき、現在の本店に戻ってきたのが、2018年6月のことだ。
 その間、出版業界では本が売れなくなり、その荒波にさらわれて日本各地の書店が姿を消した。久しぶりに戻ってきた本店は、駅前の大規模な再開発に取り込まれて閉店の危機にさらされている。本を売る現場は、20年前とは桁違いに厳しい状況に陥っていた。
 
「以前と違って、たくさん積んでも売れないものは売れない。それどころか、まず書店に足を運んでもらわないといけない。日々、何かをしていかないと現状維持すら難しいです。
 いま、だいじなのは一冊一冊をていねいに売ることかなと思い始めています。自分が最後まで読みこんだもので、ほんとうによかったという気持ちをポップに書いたり、お客さんとの会話で伝えたりしたい。人が本を読もうとするきっかけは、いろいろありますよね。だから店ではいろいろな面を出して、入口を開けておきたいんです。十人十色というくらいだから、せめて十くらいの口は開けておきたい。そのきっかけのひとつが、作家さんたちのサインだったわけですけど」
 
 再開発の話が出ている本店に戻ってきて、海東さんがまず思ったのは、店をなんとか盛り上げたいということだった。店の存続が不透明であるとしても、自分なりに力を尽くした形をつくりたい。手始めにツイッターのアカウントをつくって情報発信をはじめ、作家さんたちへ向けてサイン色紙を送ってくれるようにお願いした。
 

 
「売場を変えたいという気持ちからでした。ある程度、炎上や批判は覚悟の上で、ほんとうにサインを送ってくれる作家さんがいたらありがたいなと思っていたら、二週間くらいで60人ほどが集まり、いまは150枚を越えました(2019年1月時点)。
 お客さんの数や売上げが増えたわけではないんですが、店に見に来てくれて写真撮ってもいいですかという方は、ずいぶんいらっしゃいました。来てくださるのは地元の方なので、反響はあったと思っています。
 一方で、なんて偉そうな本屋なんだ、あやまれ、といったメールもいただきました。こちらから返信もしましたけど、絶対服従しか認めないんですね……」
 
 取材時には、サイン色紙は階段の壁や3階の売場に、作家さんたちの名前と共に貼られていた。小説家、漫画家、イラストレーターと業種もさまざま、色紙の大きさもさまざま。福井の思い出や、駅前書店に対する思いなどが書かれている色紙もあって、それぞれが店への手紙であり応援歌のようだった。ツイッターでお願いしたことや、もっとやりようがあるだろうという批判の声もわかる。だが、そうしたもやもやとした感情をすっ飛ばした先に、誰も見たことがない光景が広がっている。
 
「ほんとうに、ありがたいです。今後、色紙が増えていっても1枚1枚を忘れてはいけないし、ていねいに飾ろうと思う。いろいろな思いがあって送ってくれて、一種の特別な関係になれたので、これからすこしでも作家さんたちの力になれるようにしたいです」

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第1回 はじめに
第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
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第5回 はじめての本屋さん
第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)〜


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屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

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第6回 百科事典が飛ぶように売れたころ〜海東正晴さんの話(1)


 
 
 海東正晴さんが勝木書店に入社したのは、1985年のことだ。
 それより以前、大学を卒業してすぐに入ったのは、メガネフレームを製造・販売している会社だった。福井県は、鯖江市や福井市を中心にメガネフレームの一大産地で、国産フレームのおよそ95%を生産している。原材料や部品、製造機械、表面処理など数百ものメガネ関連会社があるなかで、海東さんが入社したのは比較的大きな老舗の会社だった。
 
「ひとりの人の手で完成品に近いものをつくる、そうした職人の仕事に憧れていました。メガネの製造過程は流れ作業ではあるんですが、機械に依存しないので、磨き作業にすごく長けている人とか、個人の力量によるところが大きいんですね。
 入社してまず、研修期間でメガネをいちからつくってみることを学んで、次に修理部署に回されました。どんなに壊れたメガネでも直すという会社だったので、仕事はおもしろかったんですが、古い体質の会社で新しいことをやりたがらない風潮だったんです。仕事がわかってくると、ああしたいこうしたいという欲求が出てきたんですけど、おとなしくしているように言われて、それが合わなくて1年半くらいで辞めました」
 
 辞めたはいいが、食い扶持は稼がねばならない。次の働き先を探して、福井市内のよく行っていた書店をたずねるが、いまは募集していないと断られる。そこで勝木書店にねらいを定め、書店で働きたい、自分が入ったらこんなことができる、と社長宛に手紙を書いた。そうして退社から一週間くらいで転職に成功し、書店員となった。26歳のときである。
 
 現在、勝木書店は福井県内だけでなく、石川県や関東地方にもグループ店をもつが、海東さんが入社した当時はまだ県内に3〜4店舗しかなかった。社員も少なく、定期採用で入ったわけでもなかったので、とりたてて研修というものもない。本店や支店で「見よう見まねというよりは、指示されたことをやって」、次の年に担当になったのが、二の宮店だった。この店で好きなようにやっていいと、ある意味ほったらかしにされたことで、あらゆる試行錯誤を重ね、のちに13年間、店長を務めることになる。
 

 
 二の宮店は、福井駅から車で10分ほどのところ、幹線道路沿いの住宅地にあった。今は「新二の宮店」として近くに移転していて、当時の場所にはない。海東さんの家は、この店から徒歩10分くらいのところにあり、トレーニングがわりに走って通っていたこともあったという。
 
「本がよく売れる時代でした。百科事典はずいぶん売りましたよ。出版社がチラシを入れてくれるので、朝からばんばん電話がかかってきました。店頭に来られたお客さんにもどんどんすすめて、自分ひとりで1日に20セットくらい売ったこともあります」
 
 百科事典が飛ぶように売れたという、今では書店業界で都市伝説のように語り継がれている話を実際に体験した人を前にして、思わず息をのむ。
 
「いちばん多かったのは、嫁入り道具としてでした。女性も大卒が増えてきて、そうした女性たちが百科事典を持参して嫁入りというのは様になったんだと思います。きちんとしたお洒落な身なりのお母さんと娘さんが一緒に来られることが多かったです。あとはお孫さんへの贈りもの。百科事典がひとつのステータスだったんですね」
 
 80年代の福井の結婚式は、なかなか豪勢だった。家具や家電などをぎっしり積んで嫁ぎ先へ運ぶ紅白幕を付けた大型トラック(後年、中身を見せるためにガラス張りになる)をよく道で見かけたし、新郎宅の屋根から紅白饅頭を投げる“饅頭まき”に紛れ込んで、一心不乱に拾った記憶がある。あのめでたいトラックの中に百科事典が積まれていたのだろう。だが、多くの場合はページを開かれることなく、部屋の装飾品として使命を終えた気がする。
 
「百科事典だけでも20数万円したんですが、嫁入り道具として100万円くらいで本をみつくろってくれと言われたこともありました。当時は文学全集もたくさん発行されていましたからね。ありがたい話でした」
 
 いったいどこの富豪の話だと耳を疑う。100万円分、自分だったら何を選ぶだろうと考え始めると、自分で自分の思考に追いつけなくなる。
 
「二の宮店にいたころは、こちらはお客さんの顔を覚えているし、お客さんもこちらのことを知っている。よくあったのは、のし袋の宛名を書いてほしいという依頼です。僕だって上手いわけではないんですが、けっこう字を書くのが苦手な方が多かったんですね。口コミで広がって、息子さんへの手紙の代筆までやったことがあります。買った本を送りたいと言われて、送料は書店もちで発送したこともありました。
 一方で、当時は販売のノルマがあることもあったんです。1冊3〜4万円くらいする地名辞典とかです。外商部が図書館を回ったりするんですが、店頭でもひとり10冊売らなきゃいけないという……。それで顔見知りのお客さんに声をかけると、そんなに困ってるんなら買ってあげるわよって、3冊も買ってくれたことがありました。離れたところに住んでいる息子さんが3人いるから送る、と。そういう時代だったんですよね」
 
 1冊3万円とまではいかずとも、新刊が出ると自分でチラシをつくって近隣の家を回ったこともあったという。ポストに入れるだけでなく、在宅していたら玄関をあけて話をする。たいていは断られるが、なかには後から店に来て、あまり売れていない様子だと買ってくれたりした。
 
「あのころは、店とお客さんが毎日顔を合わせて天気の話をしたり、近所づきあいみたいにしてつながっていたんですね。お客さんが必ず買う作家やジャンルの本がわかっているから、店側で一生懸命調べて棚に揃えるんです。今みたいにすぐ検索できるわけじゃないから、わかる範囲で調べて。するとごっそり20〜30冊くらい買っていってくれる。そして次はこんな本がほしいと言ってくれる。そうやって頼ってくださる人もいて、信頼関係が成り立っていました」
 
 地方だからなのか、時代の違いなのか、どちらもなのか、海東さんが話す当時の勝木書店は、本屋さんとお客さんの関係がかなり濃密だ。そして動く金額の桁が違う。
「でもいまは、こういう人間関係でものを売る時代じゃなくなってきたんだと思います」と海東さんは話す。では、どうやって本を売っていくのか。

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第1回 はじめに
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第5回 はじめての本屋さん


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屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
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第五回 はじめての本屋さん


 
 
 18歳の春まで福井で暮らした。
 父は読書家で、家には夏目漱石や高橋和巳の全集をはじめ、大江健三郎、黒井千次、堀田善衛、柴田翔といった作家たちの本が、壁一面の本棚にぎっしり詰まっていた。給料日はすこし帰りが遅く、福井大学の生協でじっくり選んで買った本を抱えて満面の笑みで帰ってくるのだった。
 当然の流れとして、両親は惜しみなく娘に本を買い与えるのだが、そのほとんどが岩波書店の本で、幼少時のわたしは、「読書とは格調高く、襟を正して行うもの」と刷り込まれることになる。本棚にあった『漱石全集』の函に、軽い気持ちで油性マジックで落書きをして、この世の終わりかと思う勢いで怒られたことも、刷り込みに輪をかけた。あの怒りは当然だと今ならわかる。
 かといって、わたしは父のような読書家にはならなかった。当時、熱心に読んだのは、家族3人でまわし読みした庄野潤三(『明夫と良二』がはじめだった)と藤沢周平くらいで、さらに熱を入れて読んだのは漫画で、『サスケ』(白土三平)、『パタリロ!』(魔夜峰央)、『BANANA FISH』(吉田秋生)。高橋和巳や大江健三郎には行き着かなかった。行き着けなかったというべきか。
 
 
 わたしが通っていた高校は、福井駅から歩いて15分ほどのところにあった。自宅から駅まではバスで30分。駅前から自宅方面へ向かう路線のバス停は、ちょうど勝木書店という本屋さんの目の前だった。田舎のバスは本数も少なく、高校からの帰り道、ほとんど毎日その本屋さんへ立ち寄って、時間をつぶした。
 自宅は山と川にはさまれた辺境の地にあり、徒歩圏内には「よろずや」という小さな商店があるだけで書店はない。高校に通うようになってはじめて、自分の足で書店に行くことができるようになったのだ。1時間に2本のバスを待つ時間つぶし、というよりは、立ち読みで時を忘れたといったほうがいいかもしれない。勝木書店はわたしにとって、はじめての本屋さんだった。
 駅前の本店は当時、1階に文庫、雑誌、文芸、2階は哲学、法律、社会科学など、3階が学参とコミックで、巡回するのはおもに1階と3階だ。
 1階の文芸棚では、村上春樹に出会った。父が美麗な函入りの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を買ってきていたが、冒頭部分、「エレベーターにただ乗っているシーンが延々と続いて話がちっともはじまらない」と早々に挫折していて、読書家の父にとってさえ難解な小説を書く人と思っていた。
 だが、店頭でみかけた『村上朝日堂の逆襲』は安西水丸さんの絵の表紙で親しみやすそうだし、中身も読みやすい。というより、ものすごくおもしろい。襟を正さない読書の初体験である。エッセイの話題も、青山通りでVANのコットンスーツを買ったり、神宮球場にヤクルト・スワローズの試合を観に行ったり、ウィットに富んだ比喩がちりばめられたりしている。これが東京だと思った。夜、ネオンや街のあかりが雲に反射して金色に輝いている新宿というところへ、行ってみたいと思った。
 3階では、参考書をみるふりをしてほとんど漫画を読んでいた。当時はシュリンクがかかっていないから読み放題である。友人と一緒に来て、ただひたすら無言で立ち読み、「わたしは『BANANA FISH』買うから、○○ちゃんは『ぼくの地球を守って』買って、交換しよう」というような契約を結んだりした。隣の学参売場では、ときどきは参考書も買ったし、大学受験のときには過去問が載っている通称“赤本”を、受験する大学・学部の数だけ買った。3階のフロアは、壁に沿った棚と中央の平台というシンプルなレイアウトで、とくに漫画の巨大な平台に縦横みっちり美しくカラフルな表紙が並ぶさまは、大波小波がうちよせる浜辺のようだった。
  

 
 運良く東京の大学に入って福井を離れると、勝木書店からは足が遠のいた。福井へ帰ってきたときも、駅と実家を行き来するだけで立ち寄ることがないまま時が過ぎる。
 ふと思い立って店に入ってみたのが4年前。棚の配置、カーブした階段、鈍く光る木の手すり。あまりにも当時の記憶のままで、いきおい3階にかけ上がり、漫画の平台の前で涙ぐむ。本屋さんは、いつもそこにある。いつもそこにあることが、ありがたい。
 以来、福井へ帰るたびに立ち寄るようにしていた。
 だが2018年7月、ツイッターでこんなツイートが流れてきた。
 
 
ーー実は駅前の再開発にのまれて、店の存続があやしくなってきています。作家の皆さんに図々しいお願いです。盛り上げるためにサイン色紙をください。壁一面埋めたいと思います。店をなくさないように、福井の人からより一層愛される店になるように、色々やっていきます。
 
 
 勝木書店本店の店長のツイートだった。
 経過をみていると、作家さんたちが色紙を送ってくれている一方で、ツイッターの常として炎上もしている。わたしは、自分の“はじめての本屋さん”として、話を聞きたいと思った。炎上とか、再開発とかの前に、勝木書店でいま働いている人の話を聞いておきたい。
 9月、よく晴れた日、店長の海東正晴さんを訪ね、2日間にわたってお話を聞いた。

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第2回 いま、本屋を一からやり直している~日野剛広さんの話(1)~
第3回 いくつかの転機~日野剛広さんの話(2)~
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屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

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