絵・マメイケダ

 
 
「PEのファーストが出た年ってことは86年からの付き合い」
 
 
スチャダラパーの楽曲「from喜怒哀楽」の秀逸なフレーズに習うならば、当時リリースされたばかりの山下達郎のLP、「COZY」のジャケットに、当時の飼い猫が小便をひっかけて友人を怒らせたのは1998年のこと。その前後、僕は友人二人と一軒家を借りて共同生活を送っていた。それぞれが大学を卒業してまもない頃、就職するあてもなくアルバイトを掛け持ちして生活をしていたが、それでもとりあえず親元は離れるものだという意見は一致していた。当時、学生街である左京区エリアの中心でも、風呂トイレ付きの2Kでだいたい相場は四~五万円前後。とにかく荷物が多かったから引越し後の部屋の様子をイメージするだけでウンザリした。六畳間にベッドを置けばあとは本とレコードで埋め尽くされてしまうだろう。だったら、一軒家をシェアしたほうが広々とした上経済的だ。住まいを共にすることになる友人が見つけてきた物件は、三部屋とダイニングキッチンに、こじんまりしたロフト付きの二階建て。ステップ程度の渡り廊下でつながった、独立した玄関付きの平屋がついて家賃は十二万円。三人でシェアすれば各四万円で事足りる。引っ越して間もなくロフトにはそれぞれの漫画が詰め込まれ、平屋にはレコードや本、どこぞでひろってきた応接セットが鎮座するサロン空間が出来上がった。
 
 
引っ越しの前年、それまでハードカバー大判でリリースされていた都築響一の『TOKYO STYLE』がポケット版として再編集され、「京都書院アーツコレクション」の一冊として刊行された。バブル期に量産された、コンクリート打ちっぱなしの室内にデザイナーズ家具が並んだ「東京の住まい」というイメージや、非日常でしかない「和風」を日本の暮らしとして紹介、量産する雑誌メディアへのカウンターとして、ありのままの東京暮らしを撮り集めた考現学的名著だ。畳に洋風家具のチグハグな空間に大量に積み上がった本やレコード、洋服にファンシーグッズなど、とにかくバランスの偏った住まいばかりだが、どの部屋も居心地が良さそうで、住む人の顔が想像できるような物件ばかりだった。どこで入手したのかはよく覚えていないが(おそらく通い始めたばかりのバイト先の本屋だったはずだ)僕は『Casa BRUTUS』なんかのインテリア雑誌の存在を知る以前にこの本に出会った。
 
 
「世界はこれからますます不景気になり、多くの人が経済的余裕を失っていくだろう。狭い空間で気持ちよく暮らす術は、意外に未来的だったりするのかもしれない」
 
 
この序文が書かれたのが一九九二年。少なくとも自分にとってこの予言は的を得たものとなった。今も経済的余裕を確保し、狭い空間でも気持ちよく暮らすために、自分の店の二階に在庫や資料に囲まれて生活しているのだから。
 

 
『TOKYO STYLE』初版刊行の少し前、中学生の頃に実家の蕎麦屋が建て替えられた。一九九〇年、世間はまだバブルの真っ只中。景気の良かった当時、客席の中央に囲炉裏が鎮座した民芸風の店があれよという間にコンクリート打ちっぱなしのモダンな四階建てへと姿を変えた。幼少期に通った店の真隣の幼稚園が、いつの間にかドーム型をした安藤忠雄建築のケーキ屋に変わり、その景観に合わせ、建築家に言われるがままに似非安藤建築へと姿を変え、その四階の部屋からドーム型の屋根を見下ろしながら虚ろな思春期を送った。昔のほうが良かった。うまく言葉にはできないもののモヤモヤとした思いが頭の片隅にあった。案の定、バブル崩壊とともに隣のケーキ屋は駐車場へと姿を変え、実家の蕎麦屋は高額の返済に行き詰まり廃業してしまった。
 
 
実家がモダンで生活感のない空間へと変貌したことに違和感を感じ、大量のモノとどう付き合うかに常に悩まされてきた自分にとって、『TOKYO STYLE』で紹介される暮らしぶりは、ごくごく親しみの持てる「友だちの家」ばかりだった。三人暮らしの共同生活も同様、それぞれのコレクションが並ぶ「サロン」は土間付きの京町家風の平屋に、つぶれたスナックが廃棄したような立派なソファとテーブルを設置し、押し入れを利用したDJブースにそれぞれ新しく入手した自慢のレコードを乗せて聴かせあい、それを目当てに友人たちが入れ代わり立ち代わりやってきた。混沌とした空間で一日中漫画を読んでいるやつや、キッチンを使ってカレーを振る舞いだすもの、中には知らない顔だって自由に出入りした。結婚してその家を離れた後も、後輩たちによってその住まいは引き継がれ、中には平屋の「サロン」でもぐりの喫茶店を始めるものまでいた。そこで生まれたカップルもいたし、今も付き合いのある歳も学校も違う友人たちともたくさん出会った。
 
 
『TOKYO STYLE』刊行からすでに四半世紀が過ぎたが、デザイナーズの椅子やランプが、ヴィンテージの家具や骨董品になり代わっただけで、理想の暮らし像は当時となんらかわりはない。殆どのメディアは幻想の暮らしを紹介し、多くの人がそれに憧れ続けている。ミニマルであることが理想とされ、部屋には常にモノは少なく、クラウド上ですべての情報が管理できる今、本棚ですら無用の長物のように扱われる。
 
 
かつての平屋がモノのないミニマルな空間だったとして、あれほどの人の出入りがあっただろうか。本棚のあるカフェや喫茶店では、そこにある本を読まずとも背表紙を眺めているだけで長時間を過ごせるように、居酒屋で壁を埋め尽くす短冊の美しい描き文字を眺めているだけで腰を据えて酒が呑めるように、情報量の多い空間はある種の居心地を生む。その情報に共感する人間が出入りし、彼らがまたその場の情報となる。そうやってできあがった調和の取れた空間こそが、文化と呼ぶにふさわしい場所だ。生活必需品ではなく、なくても生きていける嗜好品を扱う空間である限り、喫茶店も居酒屋も文化的な場所である。文化的な空間は資本で作れるものではないし、良し悪しについて簡単に評価できるものでもない。われわれはそういった「場」を、コストパフォーマンスとして数値化し、単純化することによって、自ら文化的であることを放棄してしまう。数値化できない「場」の良さは、センスの良いインテリアや、スタイリッシュな空間のように簡単には理解できるものではないし、ましてや一度訪れ撮影しただけで手に入れられるものでもない。
 
 
住居空間のすぐ隣りにあった平屋で、ポスターを張り、本やビデオを並べ、酒を持ち寄り、夜な夜なマイブームのプレゼンを繰り広げながら、僕はそのような「場」が作りたかったのかもしれない。後輩たちがそこから引っ越して数年後、同じように数人でそこを借りた人達によって平屋が喫茶営業もするサロン空間として使われていることを風のうわさで耳にした。それからさらに数年後、その家の周辺一角は更地へと姿を変え、間もなく立派なマンションが建った。人の出入りはなくなったが、いまだモノに囲まれたミニマルとは程遠い住まいで、なぜか今も自分の手元にある、猫の小便でジャケットが波打ってしまった山下達郎のLPを眺める度、あの頃の平屋を思い出す。

 

 ( 毎月第4月曜更新 )


著者プロフィール

堀部 篤史  Atsushi Horibe
1977年生まれ。誠光社店主。著書に『街を変える小さな店』など。

 

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