第46回 古本屋で在り続ける〜深谷由布さんの話(8)


 

 深谷由布さんは現在、夫の藤田真人さんと共に『徒然舎』を営んでいる。
 藤田さんは名古屋の古書店『太閤堂書店』の2代目で、多くの在庫を擁する事務所を構え、即売会主体の古書店を運営していた。だが、2014年初夏、事務所に立ち退き要請がきて、短期間で大量の在庫と共に引っ越さなければならなくなる。
 一方の深谷さんは、殿町の店が手狭になってきて新たな物件を探していたところ、夏前に現在の店舗を紹介される。奇跡的かつ運命的なタイミングで話が進み、『太閤堂書店』の在庫が新店舗に運び込まれ、ふたりでひとつの店を営む形ができあがった。2014年10月のことだ。
 
 ふたりで始まった『徒然舎』には、いま社員が3人、アルバイトが6人在籍している。個人経営の古書店でフルタイムで働く社員を抱えているのは、とても珍しい。
 
「美殿町の店になってから、買い取りの依頼も、店で売れる本の数もどんどん増えてきて、ふたりでは手が回らなくなってきました。太閤堂が買い取りに出てしまうと、わたしひとりで店番になり、そこへ店頭買い取りのお客さんがいらっしゃると、他のお客さんをお待たせしてしまう。さらに本が売れていくのに棚に補充する本を準備できない、ということが続いて。アルバイトを採用しよう、となったのは自然な流れでした」
 
 アルバイトを採用したからといって、その人が毎日入ってくれるわけではない。当初は2人採用したが、それでも回らなくなってくる。
 
「たくさんある本を捌ききれなくなって通販を始めてみると、通販用に入力したり、発送するための人が欲しい……というふうに、仕事が増えるたびにアルバイトを採用していきました。でも、それではもう間に合わなくなってくるんですね。それで、社員という形だったら、わたしたちと同じ目線で頑張ってくれるかもしれないって思ったんです。ちゃんと給料を払えるのか、という不安もありましたが」
 
 2019年に初めて採用した社員が、力を尽くしてくれている。それに応えたいと、法人化を考えるようになった。個人事業主の従業員では、社会保険などいろいろ手薄なところがあるためだ。新型コロナウイルスの影響が大きくなってくるなか、2020年6月には、ふたりめの社員を採用した。先の見えないコロナ禍にあって不安はあったが、2021年に法人化する。
 
「夫婦ふたりでやっていると、店で起きた良いことも悪いことも共有できる反面、気持ちが切り替わらないんです。でも自分たちが、今日は疲れたからもういいか……と思っているときに、スタッフが快活に頑張ってくれていたりすると、やっぱりこちらも切り替わって、もうちょっと頑張ろうって思えるんですね。自然とスイッチが入る。元気あるフリをしておこうと思っていたのが、ほんとうに元気がでてくる。とくに社員は、一日の多くの時間を徒然舎に預けて働いてくれているので、店を良い方向にもっていかなきゃという思いが自然に生まれます」
 
 深谷さん自身は、店を会社組織にして社長業をやりたかったわけではない。法人化は成り行き上ではあるが、新たな発見もあった。
 
「スタッフは家族ではないんですが、自分に子どもがいないので、成長を見守っているような気持ちにもなるんです。みんなまだ若いですし、失敗することがあっても段々うまくできるようになっていったり、本の知識がどんどん増えていっていたり、日々変化がある。店の売上げの上がり下がりとは別に、やりがいというか、仕事の面白みが増えました。人を雇うことにストレスやプレッシャーはありますが、自分が、各々に合った仕事をやってもらうことでチームとして良い結果を出していくことを面白いと思えるタイプだったと気づけたのは、良かったと思っています」
 
『徒然舎』のホームページには、“人に誠実、本に誠実な「まちの古本屋」”という文言がある。いわゆる「社是」だ。
 
「ほんとうは、“人に誠実、本に誠実”の後に、“自分に誠実”というのがあるんです。自分がやりたくないことはやらない、ということですね。たとえいま流行っているジャンルの本でも、売りたいと思わなかったら売らない。その代わり他のところで頑張って稼ぐ。せっかくの自分の店なので、やりたくないことをやる必要はないなと思って。自分が置きたい本だけで、お客さんを呼べる店にする、というのがずっと目標でした。いまのところ、やっていけているというのが、いちばん嬉しいことです」
 
 インタビューの最後に、これからやりたいことを聞いた。
 
「目先のことでいえば、もうすこし売上げを良くして、みんなにボーナスを出せるようにしたいです。現状、それなりに恥ずかしくない給料は払えているとは思っているんですが、ボーナスを出せるところまではできていなくて。これは今、第一の目標です。
 あとは、夢のような大金がどーんと入ってくるようなことでもあったら、どこかに支店を持ちたいです。期間限定でもいいので、東京にお店を出せたら楽しいだろうなって夢想することはあります。今はこの岐阜の街だからこその店をやっているので、東京で店をやるのってどんな感じなのか、味わってみたいんです」
 
 生きている限り、古本屋で在り続けようーー深谷さんはブログにそう綴っている。これまで、ひとり覚悟を重ね、共に働く人たちと出会い、行き着いた末の言葉なのだろう。その思いは埋火のように静かに燃え続け、消えることはない。

第45回 ひとり覚悟を決める日々〜深谷由布さんの話(7)


 

 2011年4月、殿町に古書店『徒然舎』がオープンした。深谷由布さんは、それまで同じ屋号でオンライン古書店を運営し、各地の一箱古本市やイベントに出店していたが、初めてのリアル店舗を構える。自分の場を立ち上げたのだ。
 女性がひとり、8坪ほどの小さなお店を開店、という「要素」から、当初は取材の依頼も多かった。
 
「若い女性がはじめたセレクトショップ、というイメージで記事にされることが多かったです。店の宣伝にはなったんですが、こちらが意図していない反響もあったりしました」
 
 取材を受けて、爆発的にお客さんが押しかけるということはなかったが、お店の存在はじわじわと知られていくようになった。その一方で、本を買うというよりは、ただ話したい、もしくは若い女性を教え諭したいがために店に入ってくる冷やかしの人なども少なくなかった。店主にとっては決して愉快なことではない。
 
「ひとりで店をやる、ということは、性別に関係なく平等に勝負できるということだと思っていたんですが、いざ始めてみると、女性店主だからこそなのかな、というあまり嬉しくない体験もしました。どうしたら無くせるだろうと考えていくなかで思ったんです。店が繁盛すればいいんだって。常にお客さんがいて、忙しいお店になれば、そういう人は来なくなるはず、と考えを切り替えて今に至ります」
  
 深谷さんは、店を開く前、2010年に岐阜県の古書組合に入っている。組合に入ると、古本の市場(交換会)に参加して、本を入札・落札することができる。お客さんからの買い取りだけでなく、より幅広いジャンルの本を店に並べられるのだ。
 
「組合に入って1年くらいは、とにかく本のことがわからないし、男性ばかりの独特な雰囲気にもなじめず、市場に行っても入札さえせずに帰ってくるだけでした。でも店を始めるとなると、ちゃんと本を揃えたい。それで組合の運営グループに入ったら知り合いも増えて、市場に居場所ができてきたんです。開店して1年、2012年くらいになって、ようやく店に本が揃ってきたかな、という感じでした」
  
 古書組合に入ったことで、同業の知り合いができて、本の売り買いも増えてきた。だが儲けは少なく、店の家賃や光熱費を払うと自分の給料は出ないくらいだ。
 
「実際のところ夫の稼ぎで暮らしている、古本一本でやってますって言い切れない、ということへのもどかしさ、情けない思いが、自分のなかにありました。市場には通っていても、古本屋の仲間に入りきれていない自分、というか。人生の考え方は人それぞれで、その暮らしを続けていくという選択肢もあったのだと思います。でもやっぱり自分は、古本の仕事で食べていけるようになりたい、この世界でしっかりと生きていきたいと思ったんです」
 
 新しい世界で試行錯誤を続けるなかで、徐々に価値観のズレが大きくなっていき、熟考の末、2013年に離婚。ほんとうに自分ひとりでやっていけるのか、不安な思いが尽きず、一時は店を臨時休業した。だが、退路を断ったことで気持ちが入れ替わる。
 
「古本屋としてやっていくぞ、と。市場にも頻繁に通うようになりました。精一杯がんばって本を買ったり売ったりして。わたしがヨタヨタ本を運んでいると、古本屋さんが手伝ってくれたり。そういう“古本屋やってるな!”っていうのが、すごく楽しい。まだ食べていけてはいないけど、とにかくがんばっていこうって思えました。2013年のあたりは必死だったので、あまり記憶がないんです」
 
 一方で、市場に行けば行くほど、自分の領分も見えてきた。
 
「市場には、インターネット販売専門の古本屋をやっている男の人が多いんですが、彼らは大きな車でやって来て、大量に本を買って帰るんです。その働きぶりを見ていたら、とてもわたしにはできないな、と思いました。対抗できるものはなんだろう、と考えたときに、彼らは店売りをやっていない。じゃあわたしは、店でがんばってみようと。同じ土俵で戦うのは無理だから、そうじゃないところで挑戦しようと思ったんです」
 
 かつて、勤めていた会社の上司に「古本を売ります」と言って以来、大小さまざな波が打ち寄せる。店を開いてからも波は静まる気配がなく、そのたびに深谷さんは、ひとり覚悟を決めてきた。その積み重ねで今があるのだろう。
 扱う本の量が増え、殿町の店舗を手狭に感じ始めてきたころ、縁があって、美殿町商店街の現店舗に移転する。2014年10月のことだ。そのすこし前、こちらも縁があって、名古屋の古書店、太閤堂書店の2代目である藤田真人さんと出会い、共に『徒然舎』を営んでいくことになる。
 

第44回 いくつもの荒波を越えて〜深谷由布さんの話(6)


 
 深谷由布さんが岐阜の出版社を辞めたのは、33歳のときだった。
 退社時に「古本を売る」という思いを表明したものの、いざ辞めると腑抜けのようになり、失業保険の手続きに通いながら無気力な日々を送る。
 
「当時、同じ職場だった男性と結婚していたんですが、わたしとしては相当な決意をして会社を辞めたんですけど、その思いをあんまりわかってもらえなくて。一方で、まわりの同世代が結婚、出産していくなかで、子どもがいないことにずっと引け目を感じていました。仕事を辞めて、子育てしているわけでもなく、何もしていない、社会の役に立っていないという罪悪感や無能感に押しつぶされそうになっていました」
 
 手を差し伸べたのは深谷さんの両親だった。
 
「マイルが貯まったから一緒にパリ行かない? って誘ってくれたんです。今思えば、離れて暮らす両親なりの、わたしを誘い出す口実だったのだと思います。わたしは飛行機が怖かったんですけど、もう破れかぶれの気持ちだったんで、11時間のフライトでもなんでもいいから行く! って。時間軸も文化も、何もかもが違う場所に行ったことがリフレッシュになりました」
 
 パリは夏のバカンス期間で多くの店が休みだったが、洒落た本屋さんのファサードの写真を撮っているうちに、こういうお店をやれたら楽しいだろうなあと思っている自分に気づく。
 
「気づいたことが嬉しかったんですよね。鬱屈した毎日の中で忘れかけていた、上司に『古本を売ります』って啖呵切って辞めたこと、せどりしてアマゾンのマーケットプレイスで売っていたことを思い出して、オンライン古書店ならできるかもしれないと思い始めました」
 
 覆い隠されていた深谷さんの次の道に光が当たり始める。帰国後、さっそくオンライン古本屋開業講座に申し込んだ。
 
「対人関係が嫌になって前職を辞めているので、人が怖い気持ちがあって、実店舗は考えませんでした。古本検索サイトの『スーパー源氏』が主催するオンライン古本屋開業講座に行ったのが、古本屋になろうと動き出した日です」
 
 こうして、会社員を辞めて1年後、2009年3月にオンライン古書店「徒然舎」を開業。すこし前からブログも始めていて、実店舗をもつ古本屋界隈にも知られるようになっていく。そのつながりで、名古屋で開催される一箱古本市に誘われた。
 
「ブックマークナゴヤというブックイベントで開催された一箱古本市に初めて参加しました。このときに、ゲストで来られていた山本善行さんや荻原魚雷さんといった書物雑誌『sumus(スムース)』のメンバーをはじめ、古本界隈の方たちと知り合うんですが、今まで会ったことがないタイプの人たちだったんですね。こんなに楽しそうに生きている人たちがいる、自分は世の中のことをぜんぜん知らなかったって思ったし、対面販売の楽しさも知りました」
 
 それからは、愛知・犬山、宮城・仙台、長野・小布施など各地のイベントに積極的に参加し、知り合いが増えていく。ちょうど一箱古本市が全国に広がりつつある時期でもあった。東京・雑司が谷の古書店「古書往来座」での「外市」に参加したことで、わめぞ(早稲田・目白・雑司が谷で本に関する仕事をしている人たちのグループ)のメンバーとも交流が始まる。
 一時期、オンラインショップを休止して古書店業を辞めかけ、新刊書店でアルバイトをしたこともあったが、岐阜の古書組合に入ることで活路を開いた。そして2011年4月、岐阜市殿町に実店舗をオープンする。
 
「当時、岐阜に知り合いはいなかったんですが、わめぞの方たちや、イベントで知り合った方たちが、ブログを通じてネット越しに応援してくれました。新刊書店のアルバイトで、書店の接客やレジの使い方などを教えてもらったのも役立ちました。頑張れるかもしれない、と」
 
 殿町の店は、民家を事務所にリフォームした8坪ほどの物件だった。借りたのは1月で、自分ですこしずつ改装しながら半年後くらいに開店する心づもりでいた。だが3月11日に東日本大震災が発生。深谷さんは店にいて揺れは感じなかったが、ネットでは被害状況が刻一刻と更新されていく。未曾有の災害であることは明らかだった。
 
「一週間くらいは気力がわかずに、家で廃人のようになっていました。でも、東京に住む知り合いに『こちらは暗いニュースばかりで、徒然舎さんがお店を開けることだけが明るいニュースなので、頑張ってください』と言われて、ハッとして。そんなふうに思ってもらえるなら頑張らなくては、と。そこから急ピッチで準備を進めて、とりあえず3月下旬くらいにプレオープンしました。棚もないし、本も少ないし、店内で一箱古本市を開催しているみたいな感じで、とても店とはいえないような店でした。それでも、テレビで震災のニュースを観てるのがしんどい人は来てくださいってSNSでアナウンスしたら、ちょこちょこお客さんが来てくれるようになったんです」
 
 だが、震災の影響で物流が滞っていたためレジが届かなかったり、本棚をつくる予定だったベニヤが仮設住宅に使われて入手できなかったりした。
 
「ツイッターで、本棚貸してくださいと言ったら、見知らぬ人から返信があって貸してくれたんです。柳ヶ瀬商店街の古道具屋さんが、本棚として使えるならと食器棚を貸してくれたりもしました。そうやってあり合わせのもので店っぽい感じにして、4月20日にオープンしたんです。誰かにとってちょっとでも明るいニュースになればいいなと思って」
 
 今でも、東日本大震災から何年、と聞くと、自店の開店と重ねてしまう。
 
「1995年1月と2011年3月の大震災は、自分の深いところに残っている気がします」

第43回 「古本を売ります」と声に出して言った日〜深谷由布さんの話(5)


 
 京都での大学生活を終えて、深谷由布さんは実家がある愛知県へ戻ってきた。1998年のことだ。「大学では勉強もせずに不真面目でした」と言うものの、在学中に高校の国語教員免許、図書館司書資格、学校図書館司書教諭資格を取得。図書館で働きたかったが、かなりの狭き門だったし、就職氷河期で一般企業も女子の求人は少なかった。
 
「関西で就職したい気持ちはありました。でもいろいろ考えに考えた挙げ句、もう戻るしかないという消去法で実家に帰ったという感じです」
 
 ぼんやりと、本に関わる仕事がしたい、という思いはあった。そこで、かつて通った高校近くの本屋さんの求人を見つけて働き始める。家族経営の小さなお店で、アルバイトは深谷さんひとりだけ。週に3日ほど働いた。
 
「汚れた作業着の男性が、泥がついた千円札で人妻劇画雑誌を買っていったり、歩くのもおぼつかないおじいちゃんが『薔薇族』を買っていったり。いろいろなタイプの人が、いろいろな理由で来て本を眺めて買っていく。それをただ見ているだけでドキドキしました。嫌ではなくて、めっちゃ楽しかったんです」
 
 アダルト系商品の悲喜こもごもは、街の小さな本屋さんならではの光景だ。大型書店ではあまり見られない人間模様を垣間見ることができる。
 
「近所の小学生の男の子が、親が夜勤でいなくてひとりになると、夜8時くらいにパジャマでやって来て、フランス書院の文庫を買おうとするんです。それまで『週刊プレイボーイ』などの週刊誌を買おうとしては店長に止められているんですね。漫画や写真はだめだけど、文字ならよいのではと彼なりに考えた末のフランス書院なわけです。店長に相談した上で、買えないよって伝えました。その後も、隠れて週刊誌を立ち読みするのを注意したり、攻防をくり返しましたね……そんな小さなことをたくさん覚えています」
 
 店は漫画と雑誌が売上げのメインで、単行本はほとんど置いていなかった。深谷さんはアルバイト中、この店で太宰治の全集を取り寄せて買ったが、店長に「こんなの読むの? 全集を注文する人なんていないよ、この店には」と言われたという。
 
「店長と、その家族の人たちは、本が好きなわけじゃなかったんです。本にはまったく関心がないけど、返品ができて損はしないからやってる。だから返品できない岩波書店の本はない。それもおもしろかったんです。これはこれで本屋だなって。大手書店でせわしなくアルバイトしていたら見えにくいものを、20代前半で見ることができたのが、自分にとってはすごくよかったです。本屋さんに来る人はさまざまで、だからこそ本屋という存在は大切で。書店員の仕事の魅力にも気づけた気がします」
 
 この本屋さんで半年ほど働いたのち、深谷さんは岐阜に本社があった出版社に就職する。老舗出版社で、深谷さんが入社したころは、のんびりした社風だったという。
 
「基本的には編集事務の仕事でしたが、仕事内容は向いていたと思います。わたしはデーターベースづくりが好きなので、辞典を担当したときは細かく索引の言葉をひろったりするのがすごく楽しかった。ただ、出版不況もあって出版点数が増えていき、仕事内容も変わって仕事量も増えていくのに、人も足りないし、指導できる人も少なくて、だんだん社風も変わっていきました」
 
 長く勤められそうな気がしていたが、5年目を過ぎたあたりから、少しずつ違和感を覚えるようになる。
 
「女だと出世できないんだな、そういうのは求められていないんだなっていうのが、だんだん見えてきました。正当に評価されていないと感じましたし、自分が思っているような仕事のやり方は求められていないんだと思うようになりました。慌ただしいスケジュールで本をつくり続けていくことを要求される日々は、粗製濫造をしているような罪悪感があって、かといって自分で納得できる本をつくりたいから残業していると評価を落とされるし……報われないことが続いたんです。あるとき、仕事していたら急に涙がこぼれてきて、そこでやっと自分を客観視できたんですね。これはやばいやつだって。それまでは会社を辞めるという選択肢は思いつかなかったんですけど、辞めればいいんだって気づいたら気持ちがかなり楽になりました。それで、上司に辞表を出しました」
 
 上司は一応、慰留した。何もやりたいことがないのに辞めてどうするんだ、とも言った。
 
「ちょうどそのころ、アマゾンのマーケットプレイスが始まって、こづかい稼ぎでセドリをしていたんです。ブックオフで100円で買った本がアマゾンで1000円で売れる、ということができた頃で、月に5万くらい稼いでました。辞めてどうするんだって言われてムカっとしたので『古本を売ります』って言ったんです。部長は『はあぁ? そんなの休みの日にやればいいやろ』と言うので、言い返したんです。『いや、ちゃんとやりたいんで』って」
 
「いま、ほんとうに古本売ってますからね。あのときのやりとりを、ふと思い出して、ちょっと笑えます」と深谷さんは言う。「こんなにがっつり古本売るとは思ってなかったでしょう? 部長?」。
 あまり円満とはいえない退社ではあったが、最後の日に挨拶をどうぞ、と言われたので、社員みんなの前で話した。
 
「『わたしは本が好きでこの会社に入ったんですけど、このままここで働いていると本が嫌いになってしまいそうでした。わたしが好きなのは本だけなので、本を嫌いにはなりたくないので辞めます』と言いました。あらかじめ考えていたわけではなくて、その場で思いついたことを口にしたんですけど、すごくすっきりしましたね。聞いたみんなは、ポカンとしてました。でも言わずにはいられなかったですし、自分の言葉に自分で納得しました」
 
 期せずして、退職の言葉が次の仕事への決意表明になった。2008年、9年働いた会社を退職した。

第42回 1995年、京都 〜深谷由布さんの話(4)


 
 深谷由布さんは、1994年、生まれ育った知多半島を出て、京都での大学生活をはじめた。だがいざ大学に入ってみると、とくにやりたいことが思い浮かばなかった。
 
「合格したときがピークで、もう何もやりたいことがなかったんですね。国文学専攻でしたが文学を研究したかったわけでもなく、サークルにも入らず、あまり学校にも行かず、一人暮らしをぼんやり堪能する日々でした。校舎の近くのアパートに住んでいたんですが、本屋さんはもちろん、周囲に何もなかったんです。だからやることもなくて引きこもっている状態でした」
 
 忘れがたい経験をしたのは、1年生が終わる冬。1995年1月17日、阪神・淡路大震災だ。
 
「部屋は1階で、めちゃめちゃ揺れました。直前にふと目が覚めてトイレに行って、なんでこんな時間に目が覚めたんだろうって、ぼーっとしていたら揺れはじめたんです。ベッドの上で飛び上がるくらいの揺れ。慌ててテレビつけたら真っ黒で。テレビ局が停電してたから音声しかなくて、ものすごく怖くなりました。親に電話すると起きていて、気をつけてねって言って切ったのを最後に電話がつながらなくなっちゃって……もう怖くて怖くて」
 
 ちょうどテスト期間だったこともあり、大学に行ってみたものの、テストは中止。みんなひとりでいるのは怖いから、明日また会う約束をしたり、友達の家に集まって過ごしたりした。
 
「当時、死亡者数がカウントされていたんですね。関西のテレビ局はずっとその数を放送していて、学校に行って帰ってくると死者がすごい増えてる。外ではずっと救急車やヘリコプターの音が響いていて、耳を塞いでも聞こえてくる。震度3くらいの余震が続いていて、ちょっと酔ってるみたいな感じになる。そんなことが続いて、もうノイローゼになりそうでした」
 
 自宅のアパートや、大学の校舎に被害はなかったものの、これまで経験したことがない規模の大震災に遭って、深谷さんはじわじわと不安に苛まれていった。
 
「兵庫方面から通っていた子は水道が止まっているから、学校の近くのコンビニで買った水をリュックに詰めて背負って帰ったりしていたんです。そういう姿を見ているので、水やお茶、トイレットペーパーは、買い占めないで必要な分だけ買うようにしていました。自分は生活に困るようなことはなかったんですけど、電話がぜんぜん通じなくて、親に電話できなかったのが、いちばんつらかったですね」
 
 大学時代、引きこもっていたとはいえ、だからこそ続けていたことがある。新聞の文学関係の記事を切り取ってスクラップすることだ。1995年3月20日に東京で地下鉄サリン事件が起こると、オウム関係の記事も集めるようになった。
 
「情報が好きなので、文学関係とオウム関係のスクラップ帳をひたすらつくっていました。Windows95が発売になると初めてパソコンを買って、スクラップ帳をデータベース化したホームページをつくりはじめるんです。なにせ暇ですから。そのころ、新聞社のサイトはあるんですが記事は転載禁止なので、個人でサイトをつくりたい旨を問い合わせても、黙認だったり無視されたりして。新聞を毎日切り抜いて、週一で友人が泊まりに来て一緒に入力していました」
 
 文学賞の受賞情報、直筆原稿の発見、文学碑の除幕式、作家の死没など、文学関係のニュースを集めたサイトだった。サイト名は「文學のためにできること」。やり続けていたら、某大学の先生が見つけて、とても有益なサイトだから紹介したい、と連絡がきて、日本文学の学術雑誌である『国文学 解釈と鑑賞』に掲載されたという。
 
「有益なことをしたい、と思っていました。わたしのなかでは、自分が本を読んで、研究をしているというのが、とくに何かの役に立っているという実感がなかったんです。自分では記事をスクラップすることがおもしろかったので、誰かがこれをもっと役立ててくれるんじゃないか、と。授業中も、この時間をお金に換えたいと思っていました。あんまり勉強に向いていなかったってことですね」
 
 在学中に教員免許と司書資格を取得したが、ほかは不真面目だった、と深谷さんは話す。だが最近、思わぬ邂逅があった。
 
「当時、所属していた研究会の先輩が、現在、同志社の教授になっているんですが、最近うちの店の通販で本を買ってくれたんです。わたしが店主とは知らずに。そのときにメールでやりとりして、『古本屋になって、文学のためにできること、やってるんだね』と言われて、自分では忘れていたんですけど、そう言われればそうだなって。大学時代、真面目に勉強してなかったんですけど、いま間接的に、文学を研究されている人の役に立てているのなら嬉しいなあって思いました」

第41回 知多半島で生まれ、そこから出て行くまで〜深谷由布さんの話(3)


 
 深谷由布さんが生まれ育ったのは、愛知県東海市。知多半島の付け根部分、伊勢湾に面して工場地帯が続くところだ。
 
「ほんとうに何もないところでした。父と母は高校の同級生で、それぞれの実家は離れてはいますが、ふたりとも知多半島の生まれです。父が仕事人間で忙しかったこともあって、家族でどこかに行ったという思い出があまりないんです」
 
 深谷さんは幼少時、病弱だったこともあって幼稚園にあまりなじめなかった。3歳ごろから文字を読みはじめたが、近隣に書店はなく、電車とバスを乗り継いで市立図書館に行くのが楽しみだった。買いものに連れていかれても、マネキンの足元に座って本を読んで待っているような子どもだったという。
 
「5歳ごろに数ヶ月だけ、知多半島の海沿いの町に引っ越して、図書室が充実した保育園に通うことになったんですね。そこで、自分より年少の子どもたちに紙芝居を読み聞かせていました。壁に沿って、絵本や紙芝居が詰まった2段くらいの棚が並んでいるという、わたしにとっては夢のような部屋があったんです。休み時間は外で遊ぶ子が多いんですけど、本に興味がありそうな小さな子がその部屋に入ってくると呼び止めて、紙芝居を読み聞かせるのが、すごく楽しかったのを覚えています」
 
 東海市の公立小学校に入学するも、あまり良い思い出はない。だが2年生のときに、群馬県渋川市の小学校に転校する。
 
「父の仕事の都合で、家族で引っ越しました。伊香保温泉の麓で、雷と空っ風の町です。東海市はサラリーマンか工場労働者の家の子がほとんどでしたが、こちらは自営業や酪農家の家の子も多かった。お蕎麦屋さんや鰻屋さんのおうちに行ってみたり、家で豚を飼ってるから豚肉は食べられないって泣く子がいたり、人間はいろいろな暮らし方をしてるんだなって思いました。のんびりした田舎の空気が肌に合ったのか、性格がなんだか活発になったんです」
 
 クラスの漫画が上手い子たちを集めて手製の雑誌を作ったり、芥川龍之介の『地獄変』を流行らせたりした。
 
「『地獄変』は、娘が燃えているのを見ている父、というシーンが衝撃的でした。図書委員だったこともあって、すごい怖い小説があるから、みんな読みなよって言って回って流行らせたんです。少年少女向けの日本文学全集のなかの1冊で、ちょっと小さめの判型の、えんじ色のカバーの本で、装丁は地味なんです。でも怖い」
 
 そうした転校先での生活は楽しかったが、6年生の夏休み明けに、再び東海市の小学校に戻ってきた。
 
「戻るのは悲しかったです。東海市の小学校では、どちらかといえば、いじめられっ子でしたし、嫌な思い出しかなかった。でも、戻ってきてみたら嫌なことは嫌だって言えるようになってたんですね。断ることができた。そのことで、キャラが変わったということが相手にも伝わったんだと思います。その後、進学した中学には近隣の小学校3校分の生徒が集まってきたのでリセットできて、自然体で暮らせるようになりました」
 
 中学では吹奏楽部に入ってフルートを担当。3年次には部長になる。学校の近くに大きめの書店があり、帰りによく立ち寄るようになった。
 
「なにより自分で本屋に行って、こづかいで本が買えるようになったことが楽しかったです。図書館にも自転車で行けるようになって、学校帰りにも休みの日にも通うことができる。太宰治、赤川次郎、山村美紗をよく読んでました。山村美紗の『キャサリンシリーズ』と、小松左京の雑学シリーズの文庫を、図書館に行くたびに順番に借りて読んでいましたね。雑学、好きでした。買ってないので手元にはないんですが、今でもときどき店に入荷すると、なつかしいなあって思います」
 
 本を読み、新しいことを知る楽しみがある一方で、本ばっかり読んでて真面目だとか、勉強ばっかりしてるとか、そういうことを言われることは、すごく嫌だった。
 
「真面目だから本を読んでるつもりはないんですけど、真面目だよねーって言われると、疎外感というか、うちらとは違うと言われているような気がしていました。でも負けず嫌いな面があるので、勉強してランクを上げていくことは楽しかったんです」
 
 高校時代は演劇部に入り、オリジナルの脚本を書くなどかなり熱中した。演じるほうではなく、演出や裏方を担当することが楽しかった。部活に熱を上げた結果、勉強はおろそかになったが、3年生からにわかにエンジンをかけていくことになる。
 
「名古屋あるあるな気がするんですが、県外志向があまりないんですよね。進路指導の先生にも、各家庭にも、生徒自身にも。どうしてわざわざ県外に行くの? という感じで。でもわたしは、ぜったいに名古屋を出たかったんです。地元が嫌いというよりは、地元から出たくないという、出なくてもいいという風潮が嫌だった。ただ両親からは、しっかりした大学でなければ外に出さないと言われたので、遅れを取り戻すために必死で勉強しました」
 
 その甲斐あって、受けた大学はすべて合格した。
 そして1994年、現役で同志社大学文学部文化学科国文学専攻に入学する。

第40回 岐阜の地に根付く店にする〜深谷由布さんの話(2)


 
 岐阜の古書店『徒然舎』店主、深谷由布さんが生まれ育ったのは愛知県。京都の大学を卒業して会社に就職するまでは、岐阜は隣県とはいえ縁もゆかりもない土地だった。
 
「就職した出版社が岐阜市にあって、そのときから住み始めました。会社を辞めて古本のネット販売を始めたのも岐阜でしたし、お店も岐阜でやろうと思ったんです。
 当時、岐阜には昔ながらの古本屋さんが3、4軒ありましたが、若い人でも気軽に入りやすい感じの古本屋はまだなかったので、そういうお店をつくったら会社に勤めている人が帰りにふらっと立ち寄ってくれるんじゃないかと思ったんですね。会社員時代の自分がまさにそういうお店を求めていました。まわりの人からは、そういう店は岐阜にはないから、岐阜でやるのは止めたほうがいいって言われたんですけど、ないからつくりたかった」
 
『徒然舎』が店を構えるのは美殿町商店街の一角。JR岐阜・名鉄岐阜駅から歩いて15〜20分ほどで、大通りをはさんだ向かい側には柳ヶ瀬商店街がある。柳ヶ瀬商店街はアーケードがあり、飲食店や雑貨店が軒を連ね、映画館や百貨店も建つ繁華街だが、美殿町のほうはこぢんまりとした商店街だ。かつては路面電車が走り、食器、呉服、家具、蒲団と婚礼品関連を扱うお店が多かったという。現在は、石畳風の道で夜にはガス灯がともる落ち着いた雰囲気の通りになっている。
 深谷さんは、2011年、たまたま物件を見つけた殿町で開店。美殿町商店街は殿町のお隣りで、商店街を抜けて店に通ううち、ここに店を構えられたらと思うようになった。
 
「1階が店舗で2階が住居という方が多いこともあって、通りの空気が穏やかです。わたしはそもそも、お店をやるのが怖くてネット販売を始めたくらいなので、美殿町の落ち着いた感じが居心地がいい。商店街のみなさんも2014年の移転オープンのときから応援してくださって、ここで店をやれてよかったなと思っています」
 
 古書店にとって、本をどうやって揃えるかというのは商いの肝だ。古書市場で競り落としたり、お客さんから買い取ったりしたものを、店主が値付けし、棚に並べていく。その並びを見て、お客さんが本を売りに来る。そうやって人びとの間で本が回っていく。本を売り買いする古書店は、街の空気を映す鏡のような存在ともいえるだろう。
 
『徒然舎』は、近隣の図書館や大学とも、本の売買を通して付き合いがある。
 
「大学の研究室に買い取りに行く機会があったんですね。研究室の買い取りは本の冊数も大量で良い本が多いんですけど、こちらから営業なんてできないので、どうやったら付き合いを深めていけるんだろうと思ってました。いただいた依頼を頑張ってやってきて、硬めの人文書の扱いが増えてくると、先生方から購入の注文が増えてきて。いまでは、いろいろなところから買い取り依頼がくるようになりました」
 
 そうした実績をHPで公表すると、公立の図書館からも連絡がくるようになる。
 
「岐阜県図書館の司書の方から、全集の歯抜けになっている巻を揃えたいけど、新刊書店にはもう売ってないから、古本で探してもらうことはできますか、という電話がかかってきました。欠本補充ですね」
 
 あくまで岐阜県内の話だが、図書館では、全集内の欠本や、返却されなくてそのままになっているものなど、探している本のリストがある。だが簡単に手に入るものばかりではなく、たとえネット上で希望の本を見つけても直接購入できない場合もある。そこで、そうした本を探し、購入して納品しているという。
 
「わたし自身が図書館で働きたかったこともあるし、公共的な仕事をやりたいと思っていました。店の信用にもつながります。でも、そうした仕事のときは扱う書類が膨大なんです。見積書をつくって決裁通してもらって……という流れも煩雑。大学図書館でも、大学ごとに必要な書類や項目が違ってきますから、公費でのご注文が増えるにつれて事務に時間をとられるようになってきて、それで社員を増やしたということもあります」
 
 話をうかがっていると、古書店の仕事が思った以上に多岐にわたっていることに気づく。買い取り、値付け、棚づくり、接客だけでなく、公費購入に関わる書類仕事、帳簿つけ、給料計算……。「古本屋でこんなに事務やってる人ってあんまりいないんじゃないかと思います」と深谷さんも話す。ひとりで店をやっていたときより、商いが大きくなってきているぶん、事務作業も増えてきた。
 
「会社員時代は思わなかったんですけど、市場でほかの古本屋さんと話していると、自分は事務作業が得意なほうだなとは感じます。店を経営する側になったこともあって、目の前に事務仕事があると気になっちゃうんですね。数字もちゃんと合わせたいし、間違いたくない。開店からまだ日が浅いうちの店が信用を得ていく近道は、そこしかないなと思ってやってきて、結果的によかったなと思います」
 
 仕事が多岐にわたるからこそ、ひとりでは手に余る仕事を他のスタッフに任せる。とくに出張買い取りの面では、夫である藤田真人さんの力が大きい。藤田さんは、名古屋の老舗古書店『太閤堂書店』の2代目でもあり、長く古本を扱ってきた実績がある。
 
「いろいろな意味で、出張買い取りに向いていると思います。現地に行って、たとえば3000冊くらいの本だったら、ざっと見て、しっかり値段のつけられる本とそうでない本を見極める。このジャンルだったらいくらくらいと見積もって、状態をチェックしたり、ご家族の方と話したりして、細かく値段を詰めていく。そういう仕組みはわかっているんですけど、わたしは、たとえその値段以上では買えない、損してしまうとわかっていても、この値段だと傷ついてしまわれるかなとかいろいろ考えちゃうタイプなので、お客さまとのやりとりが苦手なんです」
 
 藤田さんは、ひとりで買い取りに行き、本の値段をその場で決めて、お客さんに支払い、本を車に積んで帰ってくるという。素人からみると、思いが及ばないスキルだ。古書店主には当たり前のように備わっているスキルなのかもしれないが、だいぶ格好いい。
 
「ときどき同行することがあるんですが、わたしは口をはさまないで見てます。お客さんに対して、ちょっと踏み込みすぎでは……と思うことを言ったりしてるんですけど、終始和やかな空気で謎の共感力がある。あれは真似できないって、スタッフとも話してます」
 
 自分が理想とする店がないからこそ、自分でつくる、が出発点だった。いま『徒然舎』は確実に、岐阜の地に根付きつつある。より深く、広く根を張るために、さまざまな技能を持った人たちが集まって、太い幹となっている。

第39回 扉を開けて店に入ってきてもらうために〜深谷由布さんの話(1)


 
 2022年7月1日。東海地方は過去最短で梅雨が明け、この日の岐阜の最高気温は38度。名鉄岐阜駅に降り立つと人影はまばらで、太陽光線が強すぎるのか街全体が白っぽく映る。目指す古書店は駅から徒歩15分ほどだが、暑さのため歩くのを断念しバスに乗車、柳ヶ瀬バス停で下りて店に向かった。
 これから始まるシリーズは、岐阜の古書店『徒然舎』の店主、深谷由布さんの話だ。2009年に古本のネット通販を開業、2年後には殿町(とのまち)に実店舗を構え、現在の美殿町(みとのまち)商店街に移転したのは2014年10月のこと。
 わたしは深谷さんがネット通販を始めたころに書いていたブログをずっと読んでいて、のちにツイッターもフォローし、一方的にお店の変遷を見つめていた。靴を脱いで入る初代店舗から広い店に移転、経営もふたりになり、アルバイトや社員も雇い、昨年法人化したときには、店に行ったこともないのに感極まって感情が暴走し、花を贈ってはご迷惑だろうかと本気で考えた。生来の腰の重さが災いして今に至るが、まずは店に行けと改めて思い、今回の取材となった。深谷さんのこれまでと、これからの話を、聞いてみたかった。
 
 店は角地にあり、青いタイルが印象的なビルの1階で、ガラス張りの店内は明るく、外からも様子が見えるので入りやすい。入って正面の区画は新刊、右手に古本新入荷の本が並ぶラック、奥の青い棚には文庫、それを囲むように絵本・児童書、社会科学、文学、郷土の本の棚。ほか、自然科学、美術、民俗学、音楽、映画と品揃えは幅広い。雑然としたところがなく、どの区画も棚に美しく本が収まっていて、ゆるやかにジャンルがつながっている。内容的に堅い本もやわらかい本も、分け隔てなく並んでいるので、自分の興味を深く掘り下げていくのも楽しい。適度な広さで、お店のスタッフや他のお客さんの気配を感じつつも、自分ひとりの世界に没頭し、落ち着いて本を選ぶことができる。
 つまり、とても居心地が良い空間なのだ。
 
「わたしは個人店に行くのがあんまり得意じゃなくて、その気持ちが表れているのが自分の店なんです。初めてのお店に行くの、すごく苦手なんですよ。隠れ家的な店とか、俺の城的な店には怖くて入れないんです。店主と気が合わなかったらどうしよう、買うものがなかったらどうしようって考えちゃって、ネットですごく調べて、大丈夫そうって思わないと行けない。それくらい個人店が苦手だけど、自分がやってるのは個人店だから、なんとか入りやすい店にしようと考えました。
 店主の居心地や世界観を重視すると、どうしても入りにくい店になるんですよね。だから、自分の店はコンビニみたいな店でありたいと思ってました。なんとなく入って買いたいものがあったら買うし、なかったら出て行く。それくらいラフな感じの店がよかったんです」
 
 店がガラス張りだったのはたまたまだが、中が見えると入りやすいだろうと、窓側を棚で埋めることは極力避けている。入ってすぐのところに新刊を置いているのは、安心材料的なところもある。
 
「わたしが開業したのと夏葉社さんが創業したのは同時期だったこともあってご縁があり、うちで新刊を置いて売ったのは夏葉社さんの本が最初でした。そこから、新刊書店にあまり置いていない本を置くとお客さんが喜んでくれることを知って、いろいろな出版社のものや、リトルプレスを置くようになったんです。定期発行のリトルプレスを目当てに来てくれる方もいらっしゃいました。とくに、こういう個人店の古本屋に初めて来られたのかな、という方は、新刊を買って帰られることが多いですね。新学期とか長期休暇中とか、初来店の雰囲気の方が多い時期は、新刊の売上げが上がります」
 
 帳場の仕様にも、心をくだいている。
 
「前の店のときは、お客さんとこちらの距離感が近かったので、良くも悪くもお客さんの空気に影響を受けることが多かったんです。すごく喜んでくださったことも伝わってくるんですが、何も買うものがなくて帰られたんだなとか、ただの時間つぶしなんだなとわかってがっかりしてしまうこともある。
 そういう一喜一憂に、お客さんもわたしもできるだけ左右されないように、物理的に距離をとろうと思って、いまの店では、レジの前にカウンターがあり、さらにその前に低い本棚を置く、という造りにしました。といっても、隠れるわけではなくて、相談などはしやすいように顔を見せつつ、距離をとるようにしています。なにしろ自分は個人店では緊張してしまって、店主が機嫌悪かったらどうしようってどきどきしたりするので、店主の機嫌を気にせずに、お客さんが気軽に出入りできるといいなって」
 

 
 店の空気感をつくるのと同時に、古書店主の本領として、どうやって本を並べ棚をつくっていくかは日々のだいじな仕事だ。深谷さんはなにより、店に本を並べるのが好き、という。
 
「こう並べると売れるんじゃないかと考えて並べた本が売れていくのを見るのが、なにより好きです。さっきまで売れていなかったのに、ぱぱっと並べ直すと、その本が売れるんです。古本市やイベントに出店したときにも、わたしが触るとその本が売れるのが楽しくて。でもこれは古本屋あるあるとして、よく他の古本屋さんとも話すんですけど、店主に限らず、お客さんが触ると、その本が売れるんですよ」
 
「古本は見つけたときに買え」「いつまでもあると思うな親と古本」などと言われるが、古書店で気になる本を見つけて、次来たときに買おうと思っていても次はない、というのはよくある話だ。人間の手が触れることで、急に光が当たり出すのかもしれない。
 
「店に置ける本の量は決まっているし、見やすく並べたいし、お客さんには全部の本をPRしたい。広くない店ですし、死んでる棚はつくりたくないので、常に棚を触るようにはしています。古本屋にしては本の回転が早いのがうちの店の特徴のような気がしますし、自分で回転させている面もあります。
 あんまり入ってこないジャンルのものは残っていたりするんですけど、基本的には棚に並べて1年経ったらその本は抜くようにしています。値札に日付が入れてあるんです。入荷して、日付を入れた値札を付けたら入口近くの新入荷ワゴンに入れる。そこで数日から1週間経ったら棚に移動、そのタイミングで棚の本を確認して、古い日付のものがあったら抜く、という流れです」
 
 週に何回も来たり、毎日来るようなお客さんは、まずは新入荷ワゴンを見るという。棚の本の並びはジャンルごとに分かれているが、入荷によってはジャンルごと棚を移動することも頻繁にある。するとそこに光が当たる。
 
「わたしはけっこう堅めの本を触るのが好きで、うちの売れ筋でもあるんです。ジャージを着た気軽な感じの方が5000円くらいする哲学書をさっと買って帰られたりするので驚くんですけど、嬉しいですよね」
 
 古書店といえども、新入荷の本は日々変わり、棚も常に動いていく。その新鮮さを保つには、なにより買取や古本市場での仕入れが肝になってくる。岐阜の地で根付く店にするために、数かずの試行錯誤を重ねてきたのだ。

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む
第33回 古書店であり、酒と肴の店であり〜蓑田沙希さんの話(1)
第34回 ユニコーンと共に生きる〜蓑田沙希さんの話(2)
第35回 あやちゃんが札幌にいるから大丈夫〜蓑田沙希さんの話(3)
第36回 いまにつながる大学で学んだこと〜蓑田沙希さんの話(4)
第37回 子どもを産んで変わったことと変わらなかったこと〜蓑田沙希さんの話(5)
第38回 人生はつながっていく〜蓑田沙希さんの話(6)


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第38回 人生はつながっていく〜蓑田沙希さんの話(6)

 
 現在、蓑田沙希さんは『古本と肴 マーブル』の店主をやりつつ、フリーランスで編集と校正の仕事も請け負っている。2008年から10年間、店を始める直前まで勤めていた「日本レキシコ」という編集プロダクションとは、辞めてからも仕事のやりとりがある。
 
「日本レキシコは、辞書や事典、学習参考書などの編集プロダクションで、在職中は、小中高の国語関係の教材の編集、校正をやることが多かったです。フリーになってからは、一般書の仕事もやってます」
 
「日本レキシコ」では、教材の編集のほかにも、辞典の改訂も担当した。とても緻密な仕事だ。根気と正確さが必要とされるだろう。
 
「緻密……そうですね。時間をかけて、たくさんのものを整理していかなくてはならない仕事です。わたしが担当したのは、漢字辞典の第二版で、3年くらいかかりました。版元の担当者さんと、うちの会社が2〜3人、あとは組版所、印刷所と7〜8人でチームになって進めていきます。監修の先生がもちろんいらっしゃいますし、外部に原稿をお願いすることもありますが、進行管理や項目選定などは社内でこつこつと。あと版元の担当者さんがチェックを行う流れですね」
 
 イチから新たな辞典をつくるとなれば、人数も時間ももっとかかるが、改訂であればこのくらいの人数で進めていくこともあるという。
 
「何回も読むので、骨子がわかればそれほど膨大なことではないです。でも根詰めてやってると、明らかに区別すべきものが混同しているのを発見してしまうことはあります。そういうときは危ないから、よくよく確認しないといけません。まずそんなことは起こらないだろうという誤りのほうが、意外と気がつきにくく、こわいものです。
 わたしは漢字辞典が好きなんです。日本語を専門に学んだわけではないので、それほど知識があるわけではないんですが、同じ字種だけど字形が違うとか、異体字とか、そういうのがけっこう好き。漢字はもうすでにあるもので、部首の分類の仕方とかいろいろな説があるわけです。監修の先生によって特色はありますが、等しく必要な情報が載り、きれいに整列している。その秩序だったところが、ぐっときます」
 
 入社したきっかけは、たまたまそのとき求人していたからだった。だが仕事をやってみて感じたのは、改訂の仕事が好きということだ。
 
「編集者って、自分の企画した本を出すのが喜びという、そういう人が向いているんだと思っていたんですけど、わたしはそのタイプじゃない。埋もれてしまっていたものが、自分が仕事をすることによって、また役割を得て世の中に出る、というようなことがすごく好きなんですね。
 それって古本屋の仕事も同じだなと思ったんです。読まれていなかった本が、自分を通過して、また誰かのところへ行く、世の中に出ていく。これは自分の中で発見でした。なぜこれが好きなのか、なぜ古本屋を始めようと思ったのか、いつから好きだったのか……いろいろわからないのになんでやってるんだろうって考えたときに、これだ! って気づいたんですよね」
 
 お店の棚には、蓑田さんの蔵書と、お客さんから買い取りをした本が並んでいる。買い取りでは、それほどジャンルは選んでいない。
 
「店に並べる本は、あまり新しくないものを置いています。それほど厳密ではないですが、いま新刊書店さんで手に入りにくいものを優先してる。あとは、ここに来てくれる人が読んでくれそうなもの。最近は、社会学的な本とか、専門書でも一般の人が読んでもおもしろそうな本とか、そういうのがあるといいのかなと思っています。文学もあまり減りすぎないでほしいので、そのバランスを考えますね」
 
 蓑田さんのお話を聞いてから改めて棚を見ると、どこか蓑田さん自身の本棚のようにも見えてくる。いちばん上の棚に並ぶ埴谷雄高の存在感が大きく見えるからかもしれない。
 
「わたしはあまり歴史や自然科学が強くないんですが、自分では読んだことがないような本でも、おもしろそうだったら置きます。年齢性別を問わないような本を、わりと心がけているかもしれません。これを言うと身も蓋もない感じなんですけど、おしゃれ過ぎないようにっていうことは、けっこう意識してます。そもそも、そんな棚はつくれないですけど。古本におしゃれも何もないですが、ともすると見栄えがいい本も置きたくなっちゃう。でもそれは一部分でいいかなって」
 
 くわえて、自身が手に取ったときの感覚もだいじにしている。
 
「人に読まれたなっていう感じの本を置きたいですね。読まないまま売ったんじゃなくて、ちゃんとしっかり読まれた本。これはもう、感覚なんですけど。でも、どんなに積ん読だったとしても、30〜40年経って、今売ろうと思ったっていうことは何かしら思い入れがあって本棚に置いていたのかなと思う本もありますよね。それはそれで、その人に寄り添ってきたものではあるので」
 
 蓑田さんは、ひと息ついて、言葉を選びながら続ける。
 
「女性店主っぽくない棚をつくりたいのかもしれないです。そう言うと逆に意識してるみたいに思われるかもなんですが。そのほうが間口が広くなるように思うんですよね。20代の女の子がガーリーな本ばかり読むわけではないですが、その逆は、やはり興味がないと手に取らないんじゃないか。だから、誰が見ても1冊は手に取ってみたい本がある棚をつくりたいんです。
 自分自身は、店主さんの色が強い店に行くのが苦手なんです。雑多なもののほうが好みだし、コンセプトがあっても、その枠を越えたおもしろさはないじゃないですか。わたしが考えていることなんて、すごく狭い範疇なので、わたしが決めたらもったいないと思うんですよね。人に教えてもらったり、人それぞれの“おもしろい”が衝突する場を目指したいんです」
 
 コロナ禍で店を閉めていたころ、店がどんどんプライベートスペースのようになってしまって、気持ちがくさくさしてしまったという。店を開けて、お客さんが来て帰っていくと、新しい空気の流れが生まれる。その流れがないと、けっこうしんどいということに気づいた。
 蓑田さんがつくる酒の肴はどれも、一品一品がていねいにつくられていて、思わぬ素材の組み合わせが楽しい。それをさらに数品盛り合わせることで、隣り合う料理の味が混ざって、また別の世界が生まれる。それはどこか、本棚に似ている。
 本の改訂が古書店の仕事につながり、酒と肴につながり、それらを求めて人が集まってそれぞれの興味と思考が衝突する。すべてが無理なく成り立ち、支え合っている。

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む
第33回 古書店であり、酒と肴の店であり〜蓑田沙希さんの話(1)
第34回 ユニコーンと共に生きる〜蓑田沙希さんの話(2)
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第36回 いまにつながる大学で学んだこと〜蓑田沙希さんの話(4)
第37回 子どもを産んで変わったことと変わらなかったこと〜蓑田沙希さんの話(5)


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第37回 子どもを産んで変わったことと変わらなかったこと〜蓑田沙希さんの話(5)


 
  蓑田沙希さんは、2008年3月に大学を卒業した。27歳のときだ。法政大学文学部(二部)日本文学科へ二年時編入で入学し、5年間在籍したことになる。
 
「卒業して、ある編集プロダクションに入ったんですが、あまり合わなくてすぐ辞めて、次に日本レキシコという会社に入りました。辞書や事典の編集を手がけている編集プロダクションです。ここには店を始めるまで10年間勤めて、今でも編集者としてお世話になっています」
 
 働き始めた一方で、卒業の翌年には結婚する。相手は、大学時代に契約社員として働いていた先の5歳年上の男性だ。
 
「2010年は、常用漢字の改定があって辞書業界が忙しい年になる予定だったんですね。だからその前に結婚しちゃおうと思って」と蓑田さんは笑う。
 就職と結婚がほぼ同じ時期で、その事実だけ聞くと生活が激変したようにみえる。
 
「学生じゃなくなったというのは大きかったように思いますが、生活はそんなに変わりませんでした。飲み歩いたりしてましたし……。すぐ子どもが産まれたわけではなかったので、結婚してもそんなに変化はなかったです」
 
 結婚して5年後、長男が産まれる。
 
「20代のころは自分が子どもを産むことにぴんときていなくて、自分に似ていたら嫌だなって思っていました。でもいざ子どもが産まれたら、わたしとぜんぜん違う人間だから、似ていたらなんて取り越し苦労だった。そもそもわたしではない、と。異性だからというのもあるけど、自分の鏡でもないし、所有物でもないし、ひとりの人が新しく誕生したっていうことだから、どんな子になるんだろうっていう楽しみのほうが大きかったです」
 
 とはいえ、妊娠中にはいろいろと考えてしまったことも事実だ。妊娠出産の間、2年くらいはまったくお酒を口にしなかったから、それまでとはまったく違う生活になった。これからどんな変化が待ち受けているのか。
 
「当時、コクテイル書房の狩野さんと話していたときに、『大人のなかに子どもが参加するだけだから何も変わらない』って言われたんですね。狩野さんは、お子さんが小さいとき、前抱っこしながら店番していたりしていたんです。いまはお子さんも大きくなって、また違う気持ちになっていると思うんですが、あのときの言葉は、すごく気が楽になりました。お母さんらしくならなくてもいいんだって。そんなことそもそも無理なんですけど、母らしくあらねばならない、と思うことすらしなくていいんだって思ったんです」
 
 長男は今年、小学2年生になった。
 
「子どものことを守らなくては! っていうのは、ぜんぜんないです。守るというより、“生かす”みたいなのはあるかもしれません。産んですぐのときは、風呂で溺れるとか、抱っこしているときに転ぶとか、自分のさじ加減ひとつで子どもを殺してしまうかもしれないというプレッシャーがありましたけど、“わたしが守らなければ”は、当時もいまもない。わたしがそんなこと言わなくても、けっこうしっかりしてるなって感じるし、なんとかやっていけるだろうっていう信頼があります。
 世の中のニュースをみていると、人が誰も殺さず、誰にも殺されず、死ぬまで人生を全うすることは、けっこう難しくて、奇跡的なことのように思います。わたしも、子どもも、“絶対”はない。だからなるべく、運良くいてほしいというか、自分がやりたくないことをあまりやらないでいい人生であってほしいなとは思ったりします」
 
 蓑田さんの子どもに対する思いは、控えめのようでいて、切実だ。
 
「自分のことも、年齢を重ねてきて、元気でいられるかとか、あんまり飲みすぎるのはよくないとか、そういうことを昔よりは考えるようになってきましたね。なんか、しょうもないですけど」

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第33回 古書店であり、酒と肴の店であり〜蓑田沙希さんの話(1)
第34回 ユニコーンと共に生きる〜蓑田沙希さんの話(2)
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第36回 いまにつながる大学で学んだこと〜蓑田沙希さんの話(4)


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社