第49回 本がある空間から文化を発信する〜根井啓さんの話(3)


 
 
 2002年4月、大学を卒業した根井啓さんはコネクタなどをつくる部品メーカーに就職した。車やロケットの部品を製造していたその会社には、当時2700人ほどが働いていて、根井さんは人事関連の部署だった。
 
「海外勤務者管理とか、管理職の昇格選考試験とか、そういう仕事をしていました。10年働きましたけど、ずっとつまらなかったです。やりがいもなかったなあ。話が合う友達もできなくて、仕事以外ではずっと漫画を読んでました」
 
 2008年には、大学の後輩だった女性と結婚する。転機が訪れたのは、2011年の東日本大震災だった。
 
「塩釜と石巻に友人が住んでいて、しばらく連絡がとれませんでした。結果的には無事だったんですけど、人は簡単に死んでしまうって思ったんです。それに、会社は計画停電でなにも業務ができないのに机の前に座っていないといけなくて、ただぼんやりするしかなかった。こんなつまらない生活をしていては駄目だって思って、翌年会社を辞めました」
 
 退社後、オーストラリアのメルボルンに単身渡航、3カ月滞在した。
 
「メルボルンに大きな図書館があって、その図書館のあり方がとても良かったんです。図書館では静かに過ごさなければいけないと思っていたけど、そこはピアノをつかったイベントをやったり、にぎやかなんですね。チェスをやる空間があったり。文化の集積だけではなくて、発信する場なんだって感じました。このときに、店を開くことを考え始めた気がします」
 
 帰国して2年ほど、クラウドファンディングの会社に勤めたのち、2017年10月に『NENOi』を開店する。
 
「クラウドファンディングというものを、このとき初めて知ったんだけど、人と人をつなぐところが、おもしろいなと思ったんですね。でも、ベンチャー企業で人づかいが荒い会社だったから、子供ができたときに子育てに関われない予感がして、妻の妊娠がわかったときに退職、本格的に開店準備を始めました」
 
 根井さんは、メルボルンの図書館やクラウドファンディングを知ったことで、「場をつくりたい」という思いが強くなった。人と人がつながり、そこから新しい何かが生まれる場。
 
「僕がつなげる、というよりは、店に来た人同士、第三者同士がつながればいいなと思っていました。店に来たお客さんが、今度自分の店を開くんだけど、開店時の人手が足りないという話をしていたときに、たまたま店にいた早稲田の学生さんが手伝いに行ってくれたこともありました。コロナになって、気軽にみんなが集まることができなくなったことで願った形にはならなかったけど、ここには確かに“場”があったな、とは思います。店を閉めるときに気づいたことですけど」
 
 人と人をつなげる場として、「書店」であることは、どのような意味があったのだろう。
 
「現実的に、本だけで商売していくことは自分には無理だったし、実際ほとんど妻の収入で暮らしていました。おすすめした本を買ってくれたお客さんから、おもしろかったという感想をもらったりしたのには助けられたけど、一方で、店内でやたらと写真を撮る人や、乱暴に本を扱う人はかなりストレスでした。できれば、街の本屋として淡々と売上げを伸ばしていきたいけど、ここは他店と違うぞっていうことを常に発信していかないといけない面がありますよね。そういう意味では変わっていかないといけない、でも変わりたくない部分もあった、と思います。次に、本屋をやる機会があったら……どうだろう、悩みますね」
 
 根井さんは、2023年6月、妻、6歳の長男、猫一匹と共に、オランダのライデンという街で暮らし始めた。オランダ最古の大学があり、緑ゆたかなところだという。渡航前には、オランダでやりたいことはまだ、思いつかないと話していた。
 8月に受け取ったメールには、ようやくヴィザがとれたこと、船便の荷物はまだ届いていないこと、オランダ語はぜんぜんわからなくて、でたらめな英語でやりとりしていること、日本と違って今年のオランダは冷夏なこと、などが綴られていた。
 何かやりたいことは見つかったか、というこちらの問いに対しては、「これがほんとうに悩ましいです。本屋も閉めたいま、自分は何がしたいんだろう、そして何ができるんだろう、とちょっと見失ってる感じがあります」とあった。
 見失った先に何を始めるのか、根井さん自身も予想がつかない道が続いている。

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む
第33回 古書店であり、酒と肴の店であり〜蓑田沙希さんの話(1)
第34回 ユニコーンと共に生きる〜蓑田沙希さんの話(2)
第35回 あやちゃんが札幌にいるから大丈夫〜蓑田沙希さんの話(3)
第36回 いまにつながる大学で学んだこと〜蓑田沙希さんの話(4)
第37回 子どもを産んで変わったことと変わらなかったこと〜蓑田沙希さんの話(5)
第38回 人生はつながっていく〜蓑田沙希さんの話(6)
第39回 扉を開けて店に入ってきてもらうために〜深谷由布さんの話(1)
第40回 岐阜の地に根付く店にする〜深谷由布さんの話(2)
第41回 知多半島で生まれ、そこから出て行くまで〜深谷由布さんの話(3)
第42回 1995年、京都〜深谷由布さんの話(4)
第43回 「古本を売ります」と声に出して言った日〜深谷由布さんの話(5)
第44回 いくつもの荒波を越えて〜深谷由布さんの話(6)
第45回 ひとり覚悟を決める日々〜深谷由布さんの話(7)
第46回 古本屋で在り続ける〜深谷由布さんの話(8)
第47回 人と人をつなぐ場をつくりたい〜根井啓さんの話(1)
第48回 ミラノ、東京、福岡〜根井啓さんの話(2)

 

 


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第48回 ミラノ、東京、福岡〜根井啓さんの話(2)


 
 根井啓さんは、父親の仕事の関係で転居が多い生活だった。
 生まれたのは1979年。誕生して4カ月後にはイタリアのミラノへ。
 
「当時のことはほとんど何も覚えていないんですが、ミラノの家に『サザエさん』があって読んだ記憶はあります」
 
 3歳のときに帰国、京王線沿線の上北沢で幼稚園年長まで、下高井戸で小学5年生まで暮らした。6年生から中学時代は東京を離れて福岡で過ごすが、この時期に自分のベースとなるものが育まれたと感じるという。
 
「僕は早生まれだったんで、同学年の中では身体の成長が遅かったと思うんですけど、中学2年くらいのときに追いついてきた感じがしました。福岡で通っていた中学は先生が封建的というか、体罰が多くて、そのぶん同級生と連帯感みたいなものがあって仲良くなりました。博多弁は3日でうつりましたね」
 
 中学は、自宅から歩いて30分以上かかるところにあった。だが自転車通学禁止をはじめ、冬でもコート着用不可、腕時計禁止と、むやみに校則が厳しかった。
 
「学校は遠いけど朝はぎりぎりまで寝る。僕も含めて、そういう輩がいっぱいいました。すると通学路で、この信号でこの人たちがいるから、だいたい何時くらい、だから今日はちょっとゆとりあるな、今日はやばいなってわかるんです。時計禁止だから体感で。そういう名前を知らない“知り合い”がいる。そのなかのある先輩から『寄生獣』がおもしろいって教えてもらったんですね。ほとんど話したこともなかったのに、なぜかすすめられて、そのときは気持ち悪い表紙だなって思ったのを妙に覚えています」
 
 その後、『寄生獣』(全10巻)は長く愛読書となり、幾度の引っ越しも共にしてきた。わたしもかつて、根井さんに薦められた覚えがある。「はじめは絵柄に人間味がないなって思ったけど、すごく人間を描いてる」という。
 
 中学卒業と同時に東京に戻り、都立豊多摩高校に入学。父親は単身でローマに赴任したため、根井さんは夏休みにはローマへ行っていたという。
 高校は中学とうって変わって校則がゆるく、進学校ではあったがとくに束縛されることはなかった。
 
「陸上部に入って中長距離走をやっていました。中学の通学でよく走ったので、気づいたらちょっと早いほうになっていたんですよね。1人400メートルずつ4人で走るマイルリレーでは都の大会に出たりしました。陸上は自分の記録だから、自分を越えたかどうかわかりやすくて楽しかったです。陸上をやっていなかったら、高校は辞めていただろうなっていうくらい、それ以外のことはつまらなかったですけど」
 
 高校を卒業したのち、一浪して国際基督教大学(ICU)に入学する。高校3年のとき、公民の授業でICU卒の先生に話を聞いたのがきっかけだった。「学びたいと思えることが学べる大学」と先生は言った。この先生の話が魅力的だったのだろう、同級生で4人ほどがICUへ進学したという。学科や専攻の枠にとらわれず幅広く学び、かつ専門を深く掘り下げることもできるリベラルアーツを旨とする大学だ。
 
「当時は、文学部に入ったら文学の勉強をしなくちゃいけないと思い込んでいて、でも自分は何をしたいのかよくわからなかった。その時点で学科を絞ってしまうのが嫌だったんですが、リベラルアーツだったら興味のままにいけるかなと思ったんです。いざ入ってみたら、学生の人数も少なくて、図書館の利用率も高く、ちゃんと勉強する人が多かった」
 
 なかでも印象に残っているのは、クリティカル・シンキングという考え方だ。
 
「批判的精神というのか、ものごとや情報を鵜呑みにするのではなく、ちゃんと議論になる形で批評する姿勢ですね。『批評』というのはディスることではなく、一方的に怒ることでもなく、論理的にやり取りすることがだいじだ、ということを教えてくれるところでした」
 
 根井さんは最終的に、政治思想を専攻した。
 
「卒論のテーマはファシズムでした。でも卒論に取り組み始めてようやく、学問の入口に立ったという実感がしたんです。まだまだぜんぜん知見が足りない。自分はほんとうに何も知らない、すごく浅い知識で卒論を書こうとしている、と思いました。ただのイントロじゃんって」
 
 ICUでは、学問は多面的に横断しながら奥深く続いていることを実感した。2002年に卒業すると、迷いながらも就職活動をした末、4月からコネクタなどをつくる部品メーカーで働くことになる。

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第33回 古書店であり、酒と肴の店であり〜蓑田沙希さんの話(1)
第34回 ユニコーンと共に生きる〜蓑田沙希さんの話(2)
第35回 あやちゃんが札幌にいるから大丈夫〜蓑田沙希さんの話(3)
第36回 いまにつながる大学で学んだこと〜蓑田沙希さんの話(4)
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第38回 人生はつながっていく〜蓑田沙希さんの話(6)
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第41回 知多半島で生まれ、そこから出て行くまで〜深谷由布さんの話(3)
第42回 1995年、京都〜深谷由布さんの話(4)
第43回 「古本を売ります」と声に出して言った日〜深谷由布さんの話(5)
第44回 いくつもの荒波を越えて〜深谷由布さんの話(6)
第45回 ひとり覚悟を決める日々〜深谷由布さんの話(7)
第46回 古本屋で在り続ける〜深谷由布さんの話(8)
第47回 人と人をつなぐ場をつくりたい〜根井啓さんの話(8)

 

 


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第47回 人と人をつなぐ場をつくりたい〜根井啓さんの話(1)


 
 2023年3月31日、早稲田の書店『NENOi』が閉店した。
 店主の根井啓(ねのい・あきら)さんとは、mixiがさかんだったころに、ご近所コミュニティで知り合った。いまから20年ほど前のことだ。その後、互いに引っ越して疎遠になっていたが、書店を開いたことは風の噂で知り、数度訪れていた。
 閉店当日に立ち寄って残り少なくなった古本の棚から2冊購入し、これからのことを聞いてみると、家族3人で日本を離れるという。それならばいま、話を聞いておきたいと思った。知り合ったのは20年前だが、じつのところ互いのことをほとんど知らない。
 閉店から3週間後、本がなくなった元書店の空間で話を聞いた。
 
『NENOi』が開店したのは、2017年10月27日。早稲田大学や穴八幡にほど近い、早稲田通り沿いの1階だ。
 
「店を開く前、早稲田に住んでいました。それまでは大学しかないところと思っていたけど、穴八幡や戸山公園など、いろいろな顔がある。大学が近くにあって、大学生と接するのは良い刺激をもらえそうだなとも思ったんですね」
 
 店には新刊と古書を置き、コーヒーも出して、ときどきイベントを開催していた。新刊は根井さんが選んだラインナップで、社会をよく知るための本が多かった。
 
「本を選ぶというより、いわゆるヘイト本やエセ科学の本は置かないでおこう、とは思っていました。なるべく幅広いジャンルを揃えるようにはしていました」
 
 新刊のなかで長く置いていた本がある。『文体練習』(レーモン・クノー著/朝比奈弘治訳)(朝日出版社)だ。
 
「大学のころに読んで、すごくおもしろかったんです。バスの中で起こった出来事を、99通りに表現していて、文体が違ったり、図形になったりするんですね。デザインも凝っていて、文字組や色が使い分けられてる。ラーメンズの小林賢太郎さんがおもしろいって言ってたのがきっかけで読んでみたんです。この本は売れたら補充して、ずっと置いていました」
 
 ほかには、『えいやっ!と飛び出すあの一瞬を愛してる』(小山田咲子)(海鳥社)。
 
「小山田さんは早稲田大学の学生だった人で、卒業旅行でアルゼンチンを旅行中に、同乗していた車の事故で亡くなってしまうんです。ブログをまとめた本なんですが、文章がとても良くて。若者らしい瑞々しさもあれば、思慮深くもある。早稲田にこういう人がいたんだよって伝えたくて置いてました。開店3年目くらいからだったと思います」
 
 根井さんが店を始めたのは、人と人をつなぐ場をつくりたいと思ったからだった。
 
「その場にいた人がつながって何か新しいものが生まれたら楽しいな、という思いがありました。コロナ前までは、詩の朗読、角打ち、ランニングなど、月に一回くらいのペースでイベントをやっていたんです。おなじみの人が集ってもいいし、そこに新しい人が入ってもいいし、コミュニティがゆっくり育っていけばいいかなと」
 
 だが、2020年からはコロナ禍がはじまり、イベントどころではなくなってくる。そもそも店を閉じなくてはならない状況におちいった。
 
「コロナになって保育園が閉まると、子どもをひとりにしておけないから店を閉めました。その間、売上げは立たない。通販をやったりしましたが、本を売りたいというより、場をつくりたくてやってるのでモヤモヤが残りました。なんか違うなって」
 
 開店時は自己資金でまかない、借金もなくやってきて、コロナ禍のときには新宿区の融資も受けた。
 
「コロナの中で売上げが伸びたこともあったんですけど、昨年はがくんと下がりました。店の経営としては、それまでも売上げは全然でしたから、もう無理だなと。あとは、妻の仕事の関係でオランダに行くことになったというのが、閉店のおもな理由です」
 
 本がなくなった店内は吸収するものがないからか、妙に声が響く。
 
「後悔はないけど、もうすこしイベントができたら楽しかったなとは思いますね。あれこれやり過ぎちゃうと、家庭に負担がかかるのでそこは難しい。いまは店に本がなくなって、こんなに広かったんだって思います」

( 毎月第4水曜更新 )

過去の連載を読む
第33回 古書店であり、酒と肴の店であり〜蓑田沙希さんの話(1)
第34回 ユニコーンと共に生きる〜蓑田沙希さんの話(2)
第35回 あやちゃんが札幌にいるから大丈夫〜蓑田沙希さんの話(3)
第36回 いまにつながる大学で学んだこと〜蓑田沙希さんの話(4)
第37回 子どもを産んで変わったことと変わらなかったこと〜蓑田沙希さんの話(5)
第38回 人生はつながっていく〜蓑田沙希さんの話(6)
第39回 扉を開けて店に入ってきてもらうために〜深谷由布さんの話(1)
第40回 岐阜の地に根付く店にする〜深谷由布さんの話(2)
第41回 知多半島で生まれ、そこから出て行くまで〜深谷由布さんの話(3)
第42回 1995年、京都〜深谷由布さんの話(4)
第43回 「古本を売ります」と声に出して言った日〜深谷由布さんの話(5)
第44回 いくつもの荒波を越えて〜深谷由布さんの話(6)
第45回 ひとり覚悟を決める日々〜深谷由布さんの話(7)
第46回 古本屋で在り続ける〜深谷由布さんの話(8)

 

 


著者プロフィール

屋敷直子  Naoko Yashiki
1971年福井県生まれ。2005年よりライター。
著書に『東京こだわりブックショップ地図』(交通新聞社)など。

©夏葉社

第46回 古本屋で在り続ける〜深谷由布さんの話(8)


 

 深谷由布さんは現在、夫の藤田真人さんと共に『徒然舎』を営んでいる。
 藤田さんは名古屋の古書店『太閤堂書店』の2代目で、多くの在庫を擁する事務所を構え、即売会主体の古書店を運営していた。だが、2014年初夏、事務所に立ち退き要請がきて、短期間で大量の在庫と共に引っ越さなければならなくなる。
 一方の深谷さんは、殿町の店が手狭になってきて新たな物件を探していたところ、夏前に現在の店舗を紹介される。奇跡的かつ運命的なタイミングで話が進み、『太閤堂書店』の在庫が新店舗に運び込まれ、ふたりでひとつの店を営む形ができあがった。2014年10月のことだ。
 
 ふたりで始まった『徒然舎』には、いま社員が3人、アルバイトが6人在籍している。個人経営の古書店でフルタイムで働く社員を抱えているのは、とても珍しい。
 
「美殿町の店になってから、買い取りの依頼も、店で売れる本の数もどんどん増えてきて、ふたりでは手が回らなくなってきました。太閤堂が買い取りに出てしまうと、わたしひとりで店番になり、そこへ店頭買い取りのお客さんがいらっしゃると、他のお客さんをお待たせしてしまう。さらに本が売れていくのに棚に補充する本を準備できない、ということが続いて。アルバイトを採用しよう、となったのは自然な流れでした」
 
 アルバイトを採用したからといって、その人が毎日入ってくれるわけではない。当初は2人採用したが、それでも回らなくなってくる。
 
「たくさんある本を捌ききれなくなって通販を始めてみると、通販用に入力したり、発送するための人が欲しい……というふうに、仕事が増えるたびにアルバイトを採用していきました。でも、それではもう間に合わなくなってくるんですね。それで、社員という形だったら、わたしたちと同じ目線で頑張ってくれるかもしれないって思ったんです。ちゃんと給料を払えるのか、という不安もありましたが」
 
 2019年に初めて採用した社員が、力を尽くしてくれている。それに応えたいと、法人化を考えるようになった。個人事業主の従業員では、社会保険などいろいろ手薄なところがあるためだ。新型コロナウイルスの影響が大きくなってくるなか、2020年6月には、ふたりめの社員を採用した。先の見えないコロナ禍にあって不安はあったが、2021年に法人化する。
 
「夫婦ふたりでやっていると、店で起きた良いことも悪いことも共有できる反面、気持ちが切り替わらないんです。でも自分たちが、今日は疲れたからもういいか……と思っているときに、スタッフが快活に頑張ってくれていたりすると、やっぱりこちらも切り替わって、もうちょっと頑張ろうって思えるんですね。自然とスイッチが入る。元気あるフリをしておこうと思っていたのが、ほんとうに元気がでてくる。とくに社員は、一日の多くの時間を徒然舎に預けて働いてくれているので、店を良い方向にもっていかなきゃという思いが自然に生まれます」
 
 深谷さん自身は、店を会社組織にして社長業をやりたかったわけではない。法人化は成り行き上ではあるが、新たな発見もあった。
 
「スタッフは家族ではないんですが、自分に子どもがいないので、成長を見守っているような気持ちにもなるんです。みんなまだ若いですし、失敗することがあっても段々うまくできるようになっていったり、本の知識がどんどん増えていっていたり、日々変化がある。店の売上げの上がり下がりとは別に、やりがいというか、仕事の面白みが増えました。人を雇うことにストレスやプレッシャーはありますが、自分が、各々に合った仕事をやってもらうことでチームとして良い結果を出していくことを面白いと思えるタイプだったと気づけたのは、良かったと思っています」
 
『徒然舎』のホームページには、“人に誠実、本に誠実な「まちの古本屋」”という文言がある。いわゆる「社是」だ。
 
「ほんとうは、“人に誠実、本に誠実”の後に、“自分に誠実”というのがあるんです。自分がやりたくないことはやらない、ということですね。たとえいま流行っているジャンルの本でも、売りたいと思わなかったら売らない。その代わり他のところで頑張って稼ぐ。せっかくの自分の店なので、やりたくないことをやる必要はないなと思って。自分が置きたい本だけで、お客さんを呼べる店にする、というのがずっと目標でした。いまのところ、やっていけているというのが、いちばん嬉しいことです」
 
 インタビューの最後に、これからやりたいことを聞いた。
 
「目先のことでいえば、もうすこし売上げを良くして、みんなにボーナスを出せるようにしたいです。現状、それなりに恥ずかしくない給料は払えているとは思っているんですが、ボーナスを出せるところまではできていなくて。これは今、第一の目標です。
 あとは、夢のような大金がどーんと入ってくるようなことでもあったら、どこかに支店を持ちたいです。期間限定でもいいので、東京にお店を出せたら楽しいだろうなって夢想することはあります。今はこの岐阜の街だからこその店をやっているので、東京で店をやるのってどんな感じなのか、味わってみたいんです」
 
 生きている限り、古本屋で在り続けようーー深谷さんはブログにそう綴っている。これまで、ひとり覚悟を重ね、共に働く人たちと出会い、行き着いた末の言葉なのだろう。その思いは埋火のように静かに燃え続け、消えることはない。

第45回 ひとり覚悟を決める日々〜深谷由布さんの話(7)


 

 2011年4月、殿町に古書店『徒然舎』がオープンした。深谷由布さんは、それまで同じ屋号でオンライン古書店を運営し、各地の一箱古本市やイベントに出店していたが、初めてのリアル店舗を構える。自分の場を立ち上げたのだ。
 女性がひとり、8坪ほどの小さなお店を開店、という「要素」から、当初は取材の依頼も多かった。
 
「若い女性がはじめたセレクトショップ、というイメージで記事にされることが多かったです。店の宣伝にはなったんですが、こちらが意図していない反響もあったりしました」
 
 取材を受けて、爆発的にお客さんが押しかけるということはなかったが、お店の存在はじわじわと知られていくようになった。その一方で、本を買うというよりは、ただ話したい、もしくは若い女性を教え諭したいがために店に入ってくる冷やかしの人なども少なくなかった。店主にとっては決して愉快なことではない。
 
「ひとりで店をやる、ということは、性別に関係なく平等に勝負できるということだと思っていたんですが、いざ始めてみると、女性店主だからこそなのかな、というあまり嬉しくない体験もしました。どうしたら無くせるだろうと考えていくなかで思ったんです。店が繁盛すればいいんだって。常にお客さんがいて、忙しいお店になれば、そういう人は来なくなるはず、と考えを切り替えて今に至ります」
  
 深谷さんは、店を開く前、2010年に岐阜県の古書組合に入っている。組合に入ると、古本の市場(交換会)に参加して、本を入札・落札することができる。お客さんからの買い取りだけでなく、より幅広いジャンルの本を店に並べられるのだ。
 
「組合に入って1年くらいは、とにかく本のことがわからないし、男性ばかりの独特な雰囲気にもなじめず、市場に行っても入札さえせずに帰ってくるだけでした。でも店を始めるとなると、ちゃんと本を揃えたい。それで組合の運営グループに入ったら知り合いも増えて、市場に居場所ができてきたんです。開店して1年、2012年くらいになって、ようやく店に本が揃ってきたかな、という感じでした」
  
 古書組合に入ったことで、同業の知り合いができて、本の売り買いも増えてきた。だが儲けは少なく、店の家賃や光熱費を払うと自分の給料は出ないくらいだ。
 
「実際のところ夫の稼ぎで暮らしている、古本一本でやってますって言い切れない、ということへのもどかしさ、情けない思いが、自分のなかにありました。市場には通っていても、古本屋の仲間に入りきれていない自分、というか。人生の考え方は人それぞれで、その暮らしを続けていくという選択肢もあったのだと思います。でもやっぱり自分は、古本の仕事で食べていけるようになりたい、この世界でしっかりと生きていきたいと思ったんです」
 
 新しい世界で試行錯誤を続けるなかで、徐々に価値観のズレが大きくなっていき、熟考の末、2013年に離婚。ほんとうに自分ひとりでやっていけるのか、不安な思いが尽きず、一時は店を臨時休業した。だが、退路を断ったことで気持ちが入れ替わる。
 
「古本屋としてやっていくぞ、と。市場にも頻繁に通うようになりました。精一杯がんばって本を買ったり売ったりして。わたしがヨタヨタ本を運んでいると、古本屋さんが手伝ってくれたり。そういう“古本屋やってるな!”っていうのが、すごく楽しい。まだ食べていけてはいないけど、とにかくがんばっていこうって思えました。2013年のあたりは必死だったので、あまり記憶がないんです」
 
 一方で、市場に行けば行くほど、自分の領分も見えてきた。
 
「市場には、インターネット販売専門の古本屋をやっている男の人が多いんですが、彼らは大きな車でやって来て、大量に本を買って帰るんです。その働きぶりを見ていたら、とてもわたしにはできないな、と思いました。対抗できるものはなんだろう、と考えたときに、彼らは店売りをやっていない。じゃあわたしは、店でがんばってみようと。同じ土俵で戦うのは無理だから、そうじゃないところで挑戦しようと思ったんです」
 
 かつて、勤めていた会社の上司に「古本を売ります」と言って以来、大小さまざな波が打ち寄せる。店を開いてからも波は静まる気配がなく、そのたびに深谷さんは、ひとり覚悟を決めてきた。その積み重ねで今があるのだろう。
 扱う本の量が増え、殿町の店舗を手狭に感じ始めてきたころ、縁があって、美殿町商店街の現店舗に移転する。2014年10月のことだ。そのすこし前、こちらも縁があって、名古屋の古書店、太閤堂書店の2代目である藤田真人さんと出会い、共に『徒然舎』を営んでいくことになる。
 

第44回 いくつもの荒波を越えて〜深谷由布さんの話(6)


 
 深谷由布さんが岐阜の出版社を辞めたのは、33歳のときだった。
 退社時に「古本を売る」という思いを表明したものの、いざ辞めると腑抜けのようになり、失業保険の手続きに通いながら無気力な日々を送る。
 
「当時、同じ職場だった男性と結婚していたんですが、わたしとしては相当な決意をして会社を辞めたんですけど、その思いをあんまりわかってもらえなくて。一方で、まわりの同世代が結婚、出産していくなかで、子どもがいないことにずっと引け目を感じていました。仕事を辞めて、子育てしているわけでもなく、何もしていない、社会の役に立っていないという罪悪感や無能感に押しつぶされそうになっていました」
 
 手を差し伸べたのは深谷さんの両親だった。
 
「マイルが貯まったから一緒にパリ行かない? って誘ってくれたんです。今思えば、離れて暮らす両親なりの、わたしを誘い出す口実だったのだと思います。わたしは飛行機が怖かったんですけど、もう破れかぶれの気持ちだったんで、11時間のフライトでもなんでもいいから行く! って。時間軸も文化も、何もかもが違う場所に行ったことがリフレッシュになりました」
 
 パリは夏のバカンス期間で多くの店が休みだったが、洒落た本屋さんのファサードの写真を撮っているうちに、こういうお店をやれたら楽しいだろうなあと思っている自分に気づく。
 
「気づいたことが嬉しかったんですよね。鬱屈した毎日の中で忘れかけていた、上司に『古本を売ります』って啖呵切って辞めたこと、せどりしてアマゾンのマーケットプレイスで売っていたことを思い出して、オンライン古書店ならできるかもしれないと思い始めました」
 
 覆い隠されていた深谷さんの次の道に光が当たり始める。帰国後、さっそくオンライン古本屋開業講座に申し込んだ。
 
「対人関係が嫌になって前職を辞めているので、人が怖い気持ちがあって、実店舗は考えませんでした。古本検索サイトの『スーパー源氏』が主催するオンライン古本屋開業講座に行ったのが、古本屋になろうと動き出した日です」
 
 こうして、会社員を辞めて1年後、2009年3月にオンライン古書店「徒然舎」を開業。すこし前からブログも始めていて、実店舗をもつ古本屋界隈にも知られるようになっていく。そのつながりで、名古屋で開催される一箱古本市に誘われた。
 
「ブックマークナゴヤというブックイベントで開催された一箱古本市に初めて参加しました。このときに、ゲストで来られていた山本善行さんや荻原魚雷さんといった書物雑誌『sumus(スムース)』のメンバーをはじめ、古本界隈の方たちと知り合うんですが、今まで会ったことがないタイプの人たちだったんですね。こんなに楽しそうに生きている人たちがいる、自分は世の中のことをぜんぜん知らなかったって思ったし、対面販売の楽しさも知りました」
 
 それからは、愛知・犬山、宮城・仙台、長野・小布施など各地のイベントに積極的に参加し、知り合いが増えていく。ちょうど一箱古本市が全国に広がりつつある時期でもあった。東京・雑司が谷の古書店「古書往来座」での「外市」に参加したことで、わめぞ(早稲田・目白・雑司が谷で本に関する仕事をしている人たちのグループ)のメンバーとも交流が始まる。
 一時期、オンラインショップを休止して古書店業を辞めかけ、新刊書店でアルバイトをしたこともあったが、岐阜の古書組合に入ることで活路を開いた。そして2011年4月、岐阜市殿町に実店舗をオープンする。
 
「当時、岐阜に知り合いはいなかったんですが、わめぞの方たちや、イベントで知り合った方たちが、ブログを通じてネット越しに応援してくれました。新刊書店のアルバイトで、書店の接客やレジの使い方などを教えてもらったのも役立ちました。頑張れるかもしれない、と」
 
 殿町の店は、民家を事務所にリフォームした8坪ほどの物件だった。借りたのは1月で、自分ですこしずつ改装しながら半年後くらいに開店する心づもりでいた。だが3月11日に東日本大震災が発生。深谷さんは店にいて揺れは感じなかったが、ネットでは被害状況が刻一刻と更新されていく。未曾有の災害であることは明らかだった。
 
「一週間くらいは気力がわかずに、家で廃人のようになっていました。でも、東京に住む知り合いに『こちらは暗いニュースばかりで、徒然舎さんがお店を開けることだけが明るいニュースなので、頑張ってください』と言われて、ハッとして。そんなふうに思ってもらえるなら頑張らなくては、と。そこから急ピッチで準備を進めて、とりあえず3月下旬くらいにプレオープンしました。棚もないし、本も少ないし、店内で一箱古本市を開催しているみたいな感じで、とても店とはいえないような店でした。それでも、テレビで震災のニュースを観てるのがしんどい人は来てくださいってSNSでアナウンスしたら、ちょこちょこお客さんが来てくれるようになったんです」
 
 だが、震災の影響で物流が滞っていたためレジが届かなかったり、本棚をつくる予定だったベニヤが仮設住宅に使われて入手できなかったりした。
 
「ツイッターで、本棚貸してくださいと言ったら、見知らぬ人から返信があって貸してくれたんです。柳ヶ瀬商店街の古道具屋さんが、本棚として使えるならと食器棚を貸してくれたりもしました。そうやってあり合わせのもので店っぽい感じにして、4月20日にオープンしたんです。誰かにとってちょっとでも明るいニュースになればいいなと思って」
 
 今でも、東日本大震災から何年、と聞くと、自店の開店と重ねてしまう。
 
「1995年1月と2011年3月の大震災は、自分の深いところに残っている気がします」

第43回 「古本を売ります」と声に出して言った日〜深谷由布さんの話(5)


 
 京都での大学生活を終えて、深谷由布さんは実家がある愛知県へ戻ってきた。1998年のことだ。「大学では勉強もせずに不真面目でした」と言うものの、在学中に高校の国語教員免許、図書館司書資格、学校図書館司書教諭資格を取得。図書館で働きたかったが、かなりの狭き門だったし、就職氷河期で一般企業も女子の求人は少なかった。
 
「関西で就職したい気持ちはありました。でもいろいろ考えに考えた挙げ句、もう戻るしかないという消去法で実家に帰ったという感じです」
 
 ぼんやりと、本に関わる仕事がしたい、という思いはあった。そこで、かつて通った高校近くの本屋さんの求人を見つけて働き始める。家族経営の小さなお店で、アルバイトは深谷さんひとりだけ。週に3日ほど働いた。
 
「汚れた作業着の男性が、泥がついた千円札で人妻劇画雑誌を買っていったり、歩くのもおぼつかないおじいちゃんが『薔薇族』を買っていったり。いろいろなタイプの人が、いろいろな理由で来て本を眺めて買っていく。それをただ見ているだけでドキドキしました。嫌ではなくて、めっちゃ楽しかったんです」
 
 アダルト系商品の悲喜こもごもは、街の小さな本屋さんならではの光景だ。大型書店ではあまり見られない人間模様を垣間見ることができる。
 
「近所の小学生の男の子が、親が夜勤でいなくてひとりになると、夜8時くらいにパジャマでやって来て、フランス書院の文庫を買おうとするんです。それまで『週刊プレイボーイ』などの週刊誌を買おうとしては店長に止められているんですね。漫画や写真はだめだけど、文字ならよいのではと彼なりに考えた末のフランス書院なわけです。店長に相談した上で、買えないよって伝えました。その後も、隠れて週刊誌を立ち読みするのを注意したり、攻防をくり返しましたね……そんな小さなことをたくさん覚えています」
 
 店は漫画と雑誌が売上げのメインで、単行本はほとんど置いていなかった。深谷さんはアルバイト中、この店で太宰治の全集を取り寄せて買ったが、店長に「こんなの読むの? 全集を注文する人なんていないよ、この店には」と言われたという。
 
「店長と、その家族の人たちは、本が好きなわけじゃなかったんです。本にはまったく関心がないけど、返品ができて損はしないからやってる。だから返品できない岩波書店の本はない。それもおもしろかったんです。これはこれで本屋だなって。大手書店でせわしなくアルバイトしていたら見えにくいものを、20代前半で見ることができたのが、自分にとってはすごくよかったです。本屋さんに来る人はさまざまで、だからこそ本屋という存在は大切で。書店員の仕事の魅力にも気づけた気がします」
 
 この本屋さんで半年ほど働いたのち、深谷さんは岐阜に本社があった出版社に就職する。老舗出版社で、深谷さんが入社したころは、のんびりした社風だったという。
 
「基本的には編集事務の仕事でしたが、仕事内容は向いていたと思います。わたしはデーターベースづくりが好きなので、辞典を担当したときは細かく索引の言葉をひろったりするのがすごく楽しかった。ただ、出版不況もあって出版点数が増えていき、仕事内容も変わって仕事量も増えていくのに、人も足りないし、指導できる人も少なくて、だんだん社風も変わっていきました」
 
 長く勤められそうな気がしていたが、5年目を過ぎたあたりから、少しずつ違和感を覚えるようになる。
 
「女だと出世できないんだな、そういうのは求められていないんだなっていうのが、だんだん見えてきました。正当に評価されていないと感じましたし、自分が思っているような仕事のやり方は求められていないんだと思うようになりました。慌ただしいスケジュールで本をつくり続けていくことを要求される日々は、粗製濫造をしているような罪悪感があって、かといって自分で納得できる本をつくりたいから残業していると評価を落とされるし……報われないことが続いたんです。あるとき、仕事していたら急に涙がこぼれてきて、そこでやっと自分を客観視できたんですね。これはやばいやつだって。それまでは会社を辞めるという選択肢は思いつかなかったんですけど、辞めればいいんだって気づいたら気持ちがかなり楽になりました。それで、上司に辞表を出しました」
 
 上司は一応、慰留した。何もやりたいことがないのに辞めてどうするんだ、とも言った。
 
「ちょうどそのころ、アマゾンのマーケットプレイスが始まって、こづかい稼ぎでセドリをしていたんです。ブックオフで100円で買った本がアマゾンで1000円で売れる、ということができた頃で、月に5万くらい稼いでました。辞めてどうするんだって言われてムカっとしたので『古本を売ります』って言ったんです。部長は『はあぁ? そんなの休みの日にやればいいやろ』と言うので、言い返したんです。『いや、ちゃんとやりたいんで』って」
 
「いま、ほんとうに古本売ってますからね。あのときのやりとりを、ふと思い出して、ちょっと笑えます」と深谷さんは言う。「こんなにがっつり古本売るとは思ってなかったでしょう? 部長?」。
 あまり円満とはいえない退社ではあったが、最後の日に挨拶をどうぞ、と言われたので、社員みんなの前で話した。
 
「『わたしは本が好きでこの会社に入ったんですけど、このままここで働いていると本が嫌いになってしまいそうでした。わたしが好きなのは本だけなので、本を嫌いにはなりたくないので辞めます』と言いました。あらかじめ考えていたわけではなくて、その場で思いついたことを口にしたんですけど、すごくすっきりしましたね。聞いたみんなは、ポカンとしてました。でも言わずにはいられなかったですし、自分の言葉に自分で納得しました」
 
 期せずして、退職の言葉が次の仕事への決意表明になった。2008年、9年働いた会社を退職した。

第42回 1995年、京都 〜深谷由布さんの話(4)


 
 深谷由布さんは、1994年、生まれ育った知多半島を出て、京都での大学生活をはじめた。だがいざ大学に入ってみると、とくにやりたいことが思い浮かばなかった。
 
「合格したときがピークで、もう何もやりたいことがなかったんですね。国文学専攻でしたが文学を研究したかったわけでもなく、サークルにも入らず、あまり学校にも行かず、一人暮らしをぼんやり堪能する日々でした。校舎の近くのアパートに住んでいたんですが、本屋さんはもちろん、周囲に何もなかったんです。だからやることもなくて引きこもっている状態でした」
 
 忘れがたい経験をしたのは、1年生が終わる冬。1995年1月17日、阪神・淡路大震災だ。
 
「部屋は1階で、めちゃめちゃ揺れました。直前にふと目が覚めてトイレに行って、なんでこんな時間に目が覚めたんだろうって、ぼーっとしていたら揺れはじめたんです。ベッドの上で飛び上がるくらいの揺れ。慌ててテレビつけたら真っ黒で。テレビ局が停電してたから音声しかなくて、ものすごく怖くなりました。親に電話すると起きていて、気をつけてねって言って切ったのを最後に電話がつながらなくなっちゃって……もう怖くて怖くて」
 
 ちょうどテスト期間だったこともあり、大学に行ってみたものの、テストは中止。みんなひとりでいるのは怖いから、明日また会う約束をしたり、友達の家に集まって過ごしたりした。
 
「当時、死亡者数がカウントされていたんですね。関西のテレビ局はずっとその数を放送していて、学校に行って帰ってくると死者がすごい増えてる。外ではずっと救急車やヘリコプターの音が響いていて、耳を塞いでも聞こえてくる。震度3くらいの余震が続いていて、ちょっと酔ってるみたいな感じになる。そんなことが続いて、もうノイローゼになりそうでした」
 
 自宅のアパートや、大学の校舎に被害はなかったものの、これまで経験したことがない規模の大震災に遭って、深谷さんはじわじわと不安に苛まれていった。
 
「兵庫方面から通っていた子は水道が止まっているから、学校の近くのコンビニで買った水をリュックに詰めて背負って帰ったりしていたんです。そういう姿を見ているので、水やお茶、トイレットペーパーは、買い占めないで必要な分だけ買うようにしていました。自分は生活に困るようなことはなかったんですけど、電話がぜんぜん通じなくて、親に電話できなかったのが、いちばんつらかったですね」
 
 大学時代、引きこもっていたとはいえ、だからこそ続けていたことがある。新聞の文学関係の記事を切り取ってスクラップすることだ。1995年3月20日に東京で地下鉄サリン事件が起こると、オウム関係の記事も集めるようになった。
 
「情報が好きなので、文学関係とオウム関係のスクラップ帳をひたすらつくっていました。Windows95が発売になると初めてパソコンを買って、スクラップ帳をデータベース化したホームページをつくりはじめるんです。なにせ暇ですから。そのころ、新聞社のサイトはあるんですが記事は転載禁止なので、個人でサイトをつくりたい旨を問い合わせても、黙認だったり無視されたりして。新聞を毎日切り抜いて、週一で友人が泊まりに来て一緒に入力していました」
 
 文学賞の受賞情報、直筆原稿の発見、文学碑の除幕式、作家の死没など、文学関係のニュースを集めたサイトだった。サイト名は「文學のためにできること」。やり続けていたら、某大学の先生が見つけて、とても有益なサイトだから紹介したい、と連絡がきて、日本文学の学術雑誌である『国文学 解釈と鑑賞』に掲載されたという。
 
「有益なことをしたい、と思っていました。わたしのなかでは、自分が本を読んで、研究をしているというのが、とくに何かの役に立っているという実感がなかったんです。自分では記事をスクラップすることがおもしろかったので、誰かがこれをもっと役立ててくれるんじゃないか、と。授業中も、この時間をお金に換えたいと思っていました。あんまり勉強に向いていなかったってことですね」
 
 在学中に教員免許と司書資格を取得したが、ほかは不真面目だった、と深谷さんは話す。だが最近、思わぬ邂逅があった。
 
「当時、所属していた研究会の先輩が、現在、同志社の教授になっているんですが、最近うちの店の通販で本を買ってくれたんです。わたしが店主とは知らずに。そのときにメールでやりとりして、『古本屋になって、文学のためにできること、やってるんだね』と言われて、自分では忘れていたんですけど、そう言われればそうだなって。大学時代、真面目に勉強してなかったんですけど、いま間接的に、文学を研究されている人の役に立てているのなら嬉しいなあって思いました」

第41回 知多半島で生まれ、そこから出て行くまで〜深谷由布さんの話(3)


 
 深谷由布さんが生まれ育ったのは、愛知県東海市。知多半島の付け根部分、伊勢湾に面して工場地帯が続くところだ。
 
「ほんとうに何もないところでした。父と母は高校の同級生で、それぞれの実家は離れてはいますが、ふたりとも知多半島の生まれです。父が仕事人間で忙しかったこともあって、家族でどこかに行ったという思い出があまりないんです」
 
 深谷さんは幼少時、病弱だったこともあって幼稚園にあまりなじめなかった。3歳ごろから文字を読みはじめたが、近隣に書店はなく、電車とバスを乗り継いで市立図書館に行くのが楽しみだった。買いものに連れていかれても、マネキンの足元に座って本を読んで待っているような子どもだったという。
 
「5歳ごろに数ヶ月だけ、知多半島の海沿いの町に引っ越して、図書室が充実した保育園に通うことになったんですね。そこで、自分より年少の子どもたちに紙芝居を読み聞かせていました。壁に沿って、絵本や紙芝居が詰まった2段くらいの棚が並んでいるという、わたしにとっては夢のような部屋があったんです。休み時間は外で遊ぶ子が多いんですけど、本に興味がありそうな小さな子がその部屋に入ってくると呼び止めて、紙芝居を読み聞かせるのが、すごく楽しかったのを覚えています」
 
 東海市の公立小学校に入学するも、あまり良い思い出はない。だが2年生のときに、群馬県渋川市の小学校に転校する。
 
「父の仕事の都合で、家族で引っ越しました。伊香保温泉の麓で、雷と空っ風の町です。東海市はサラリーマンか工場労働者の家の子がほとんどでしたが、こちらは自営業や酪農家の家の子も多かった。お蕎麦屋さんや鰻屋さんのおうちに行ってみたり、家で豚を飼ってるから豚肉は食べられないって泣く子がいたり、人間はいろいろな暮らし方をしてるんだなって思いました。のんびりした田舎の空気が肌に合ったのか、性格がなんだか活発になったんです」
 
 クラスの漫画が上手い子たちを集めて手製の雑誌を作ったり、芥川龍之介の『地獄変』を流行らせたりした。
 
「『地獄変』は、娘が燃えているのを見ている父、というシーンが衝撃的でした。図書委員だったこともあって、すごい怖い小説があるから、みんな読みなよって言って回って流行らせたんです。少年少女向けの日本文学全集のなかの1冊で、ちょっと小さめの判型の、えんじ色のカバーの本で、装丁は地味なんです。でも怖い」
 
 そうした転校先での生活は楽しかったが、6年生の夏休み明けに、再び東海市の小学校に戻ってきた。
 
「戻るのは悲しかったです。東海市の小学校では、どちらかといえば、いじめられっ子でしたし、嫌な思い出しかなかった。でも、戻ってきてみたら嫌なことは嫌だって言えるようになってたんですね。断ることができた。そのことで、キャラが変わったということが相手にも伝わったんだと思います。その後、進学した中学には近隣の小学校3校分の生徒が集まってきたのでリセットできて、自然体で暮らせるようになりました」
 
 中学では吹奏楽部に入ってフルートを担当。3年次には部長になる。学校の近くに大きめの書店があり、帰りによく立ち寄るようになった。
 
「なにより自分で本屋に行って、こづかいで本が買えるようになったことが楽しかったです。図書館にも自転車で行けるようになって、学校帰りにも休みの日にも通うことができる。太宰治、赤川次郎、山村美紗をよく読んでました。山村美紗の『キャサリンシリーズ』と、小松左京の雑学シリーズの文庫を、図書館に行くたびに順番に借りて読んでいましたね。雑学、好きでした。買ってないので手元にはないんですが、今でもときどき店に入荷すると、なつかしいなあって思います」
 
 本を読み、新しいことを知る楽しみがある一方で、本ばっかり読んでて真面目だとか、勉強ばっかりしてるとか、そういうことを言われることは、すごく嫌だった。
 
「真面目だから本を読んでるつもりはないんですけど、真面目だよねーって言われると、疎外感というか、うちらとは違うと言われているような気がしていました。でも負けず嫌いな面があるので、勉強してランクを上げていくことは楽しかったんです」
 
 高校時代は演劇部に入り、オリジナルの脚本を書くなどかなり熱中した。演じるほうではなく、演出や裏方を担当することが楽しかった。部活に熱を上げた結果、勉強はおろそかになったが、3年生からにわかにエンジンをかけていくことになる。
 
「名古屋あるあるな気がするんですが、県外志向があまりないんですよね。進路指導の先生にも、各家庭にも、生徒自身にも。どうしてわざわざ県外に行くの? という感じで。でもわたしは、ぜったいに名古屋を出たかったんです。地元が嫌いというよりは、地元から出たくないという、出なくてもいいという風潮が嫌だった。ただ両親からは、しっかりした大学でなければ外に出さないと言われたので、遅れを取り戻すために必死で勉強しました」
 
 その甲斐あって、受けた大学はすべて合格した。
 そして1994年、現役で同志社大学文学部文化学科国文学専攻に入学する。

第40回 岐阜の地に根付く店にする〜深谷由布さんの話(2)


 
 岐阜の古書店『徒然舎』店主、深谷由布さんが生まれ育ったのは愛知県。京都の大学を卒業して会社に就職するまでは、岐阜は隣県とはいえ縁もゆかりもない土地だった。
 
「就職した出版社が岐阜市にあって、そのときから住み始めました。会社を辞めて古本のネット販売を始めたのも岐阜でしたし、お店も岐阜でやろうと思ったんです。
 当時、岐阜には昔ながらの古本屋さんが3、4軒ありましたが、若い人でも気軽に入りやすい感じの古本屋はまだなかったので、そういうお店をつくったら会社に勤めている人が帰りにふらっと立ち寄ってくれるんじゃないかと思ったんですね。会社員時代の自分がまさにそういうお店を求めていました。まわりの人からは、そういう店は岐阜にはないから、岐阜でやるのは止めたほうがいいって言われたんですけど、ないからつくりたかった」
 
『徒然舎』が店を構えるのは美殿町商店街の一角。JR岐阜・名鉄岐阜駅から歩いて15〜20分ほどで、大通りをはさんだ向かい側には柳ヶ瀬商店街がある。柳ヶ瀬商店街はアーケードがあり、飲食店や雑貨店が軒を連ね、映画館や百貨店も建つ繁華街だが、美殿町のほうはこぢんまりとした商店街だ。かつては路面電車が走り、食器、呉服、家具、蒲団と婚礼品関連を扱うお店が多かったという。現在は、石畳風の道で夜にはガス灯がともる落ち着いた雰囲気の通りになっている。
 深谷さんは、2011年、たまたま物件を見つけた殿町で開店。美殿町商店街は殿町のお隣りで、商店街を抜けて店に通ううち、ここに店を構えられたらと思うようになった。
 
「1階が店舗で2階が住居という方が多いこともあって、通りの空気が穏やかです。わたしはそもそも、お店をやるのが怖くてネット販売を始めたくらいなので、美殿町の落ち着いた感じが居心地がいい。商店街のみなさんも2014年の移転オープンのときから応援してくださって、ここで店をやれてよかったなと思っています」
 
 古書店にとって、本をどうやって揃えるかというのは商いの肝だ。古書市場で競り落としたり、お客さんから買い取ったりしたものを、店主が値付けし、棚に並べていく。その並びを見て、お客さんが本を売りに来る。そうやって人びとの間で本が回っていく。本を売り買いする古書店は、街の空気を映す鏡のような存在ともいえるだろう。
 
『徒然舎』は、近隣の図書館や大学とも、本の売買を通して付き合いがある。
 
「大学の研究室に買い取りに行く機会があったんですね。研究室の買い取りは本の冊数も大量で良い本が多いんですけど、こちらから営業なんてできないので、どうやったら付き合いを深めていけるんだろうと思ってました。いただいた依頼を頑張ってやってきて、硬めの人文書の扱いが増えてくると、先生方から購入の注文が増えてきて。いまでは、いろいろなところから買い取り依頼がくるようになりました」
 
 そうした実績をHPで公表すると、公立の図書館からも連絡がくるようになる。
 
「岐阜県図書館の司書の方から、全集の歯抜けになっている巻を揃えたいけど、新刊書店にはもう売ってないから、古本で探してもらうことはできますか、という電話がかかってきました。欠本補充ですね」
 
 あくまで岐阜県内の話だが、図書館では、全集内の欠本や、返却されなくてそのままになっているものなど、探している本のリストがある。だが簡単に手に入るものばかりではなく、たとえネット上で希望の本を見つけても直接購入できない場合もある。そこで、そうした本を探し、購入して納品しているという。
 
「わたし自身が図書館で働きたかったこともあるし、公共的な仕事をやりたいと思っていました。店の信用にもつながります。でも、そうした仕事のときは扱う書類が膨大なんです。見積書をつくって決裁通してもらって……という流れも煩雑。大学図書館でも、大学ごとに必要な書類や項目が違ってきますから、公費でのご注文が増えるにつれて事務に時間をとられるようになってきて、それで社員を増やしたということもあります」
 
 話をうかがっていると、古書店の仕事が思った以上に多岐にわたっていることに気づく。買い取り、値付け、棚づくり、接客だけでなく、公費購入に関わる書類仕事、帳簿つけ、給料計算……。「古本屋でこんなに事務やってる人ってあんまりいないんじゃないかと思います」と深谷さんも話す。ひとりで店をやっていたときより、商いが大きくなってきているぶん、事務作業も増えてきた。
 
「会社員時代は思わなかったんですけど、市場でほかの古本屋さんと話していると、自分は事務作業が得意なほうだなとは感じます。店を経営する側になったこともあって、目の前に事務仕事があると気になっちゃうんですね。数字もちゃんと合わせたいし、間違いたくない。開店からまだ日が浅いうちの店が信用を得ていく近道は、そこしかないなと思ってやってきて、結果的によかったなと思います」
 
 仕事が多岐にわたるからこそ、ひとりでは手に余る仕事を他のスタッフに任せる。とくに出張買い取りの面では、夫である藤田真人さんの力が大きい。藤田さんは、名古屋の老舗古書店『太閤堂書店』の2代目でもあり、長く古本を扱ってきた実績がある。
 
「いろいろな意味で、出張買い取りに向いていると思います。現地に行って、たとえば3000冊くらいの本だったら、ざっと見て、しっかり値段のつけられる本とそうでない本を見極める。このジャンルだったらいくらくらいと見積もって、状態をチェックしたり、ご家族の方と話したりして、細かく値段を詰めていく。そういう仕組みはわかっているんですけど、わたしは、たとえその値段以上では買えない、損してしまうとわかっていても、この値段だと傷ついてしまわれるかなとかいろいろ考えちゃうタイプなので、お客さまとのやりとりが苦手なんです」
 
 藤田さんは、ひとりで買い取りに行き、本の値段をその場で決めて、お客さんに支払い、本を車に積んで帰ってくるという。素人からみると、思いが及ばないスキルだ。古書店主には当たり前のように備わっているスキルなのかもしれないが、だいぶ格好いい。
 
「ときどき同行することがあるんですが、わたしは口をはさまないで見てます。お客さんに対して、ちょっと踏み込みすぎでは……と思うことを言ったりしてるんですけど、終始和やかな空気で謎の共感力がある。あれは真似できないって、スタッフとも話してます」
 
 自分が理想とする店がないからこそ、自分でつくる、が出発点だった。いま『徒然舎』は確実に、岐阜の地に根付きつつある。より深く、広く根を張るために、さまざまな技能を持った人たちが集まって、太い幹となっている。